偽書といえば『東日流外三郡誌』を思い浮かべる。近代の偽作であることは明らかなのだが、その壮大なスケールと精緻なディテールには、そうだったのか、と思わせる魅力がある。村史の資料編として公刊されたから論争となったのであって、史書の体裁による創作だと公言しておけば問題にならなかっただろう。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』も偽書だとされるが、巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」は他にはない情報が含まれており、何らかの史実あるいは伝承を示唆するのではと着目されている。
岐阜市金町五丁目の金(こがね)神社の境内末社に「賀夫良城(かぶらぎ)神社」があり、社殿の後ろに小さな円墳がある。岐阜市指定史跡の「賀夫良命塚」である。
「かぶらぎ」と聞けば、語感から由緒がありそうに感じる。社務所でいただいた「金神社由緒略記」で確かめてみよう。
御鎮座の年代は遠く上代に在って、成務天皇の御代(西暦一三五)、物部臣賀夫良命(もののべのおみかぶらのみこと)が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められ、篤く金大神を尊崇されたと伝えられている。
境内の東北の隅に命を祭る古墳「賀夫良城(かぶらぎ)」があり、近くに「蕪城町(かぶらぎちょう)」という町名が存するのも之に由来するものと思われる。
また、神社制作の説明板には次のように記されている。
賀臣夫良命の奥都城(墓)と伝えられている。命は物部十千根命(もののべのとちねのみこと)の嫡孫で今を去る凡そ一千八百年前成務天皇の御代はるばるこの三野後(みののしり)の地に国造として赴任され、国府をこの高台に定められた。
135年とは、なかなか具体的だ。成務天皇5年に相当する。現実にはどのような政府があったのか定かではない時代だ。調べてみれば、上記の由緒や説明の出典は『先代旧事本紀』の「国造本紀」のようだ。関連部分を引用しよう。(経済雑誌社『国史大系』第7巻所収「先代旧事本紀」1897-1901)
三野後国造(ミヌノクニノミチノシリノクニノミヤツコ)
志賀ノ高穴穂の朝ノ御代ニ、物部ノ連ノ祖出雲大臣ノ命ノ孫臣(ヲン)賀夫良(カブラ)ノ命ヲ国造ニ定賜フ。
三野後国造とは美濃国の東部を支配した者。志賀高穴穂とは成務天皇の皇宮で、大津市穴太の高穴穂神社が伝承地だとされる。また出雲大臣は物部氏の先祖で、賀夫良命は出雲大臣の子孫だという。つまり、成務天皇の御代に物部一族の臣賀夫良命を国造に定められた、ということだ。
ただ、岐阜市は美濃国では東部というより西部であるため、三野後国造の国府がここにあったとは考えられない。それでも古代から信仰の対象とされてきたことは確かで、由緒の典拠を一般の神社が記紀に求めているのに対し、金神社では『先代旧事本紀』に求めているのである。そういう意味では謎の史書『先代旧事本紀』ゆかりの貴重な史跡である。
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