この土日は春の嵐で各地の花見も桜吹雪が舞ったことだろう。少々花冷えのする一日であったが、今日を逃してはならぬと思い津山市の津山城(鶴山公園)の「津山さくらまつり」に出かけた。下の写真は近年復元された備中櫓である。築城400年を記念して2004年(平成16年)に整備された。
前回、NARUTO列車について書いたが、写真も撮ったのでUPしておく。
この列車は美作国建国1300年を記念しての運行なので、今日の史跡も関連の史跡とした。前回の国府に続いては、国分寺・国分尼寺である。
津山市国分寺の天台宗龍壽山国分寺のあたりは「美作国分寺阯」である。門前と境内にかつての礎石がある。
下の写真が金堂の跡となる。建物は国分寺公会堂である。
復元図では、矢印の場所となる。
説明板によると、ここは全国の国分寺の中でも最大級であることが明らかになったといい、次のように記されている。
美作国分寺は奈良時代の中頃に主要の伽藍がほぼ完成し、その後奈良時代末又は平安時代初頭に中門を中心に修復が行われ、平安時代後半にも金堂・講堂が修復されました。そして平安時代末頃には廃絶したと思われます。
将来は史跡公園として整備されるようだ。おそらくは播磨国分寺跡のようになるのだろう。
津山市日上に「美作国分尼寺跡」がある。国分寺ほど分かってはいないが、この標柱の周辺が寺域と想定されている。
『美作国分尼寺跡発掘調査報告』(津山市教育委員会、1983)には、次のように記されている。
美作国分尼寺跡には、現在人神(にんじん)の小字名が遺存しているのみで、顕著な地物をとどめない。1913年、矢吹金一郎はこの人神の地名を国分尼寺の転訛と考えた。1926年、永山卯三郎はこの説をさらに発展させ、具体的な寺域を想定した。すなわち、日上字人神と国分寺字古池との境界となっている釣の手に曲る用水路の商及び東に接して、幅9~13mの一段高い帯状の田畑があり、それと南のさらに一段高い台地との間に東西約150m、南北約100mの水田があることに着目し、その帯状の田畑の部分をかつての堤、その内側の水田部分を用水池と解し、奈良時代の寺院が用水池となる例が多いことを根拠に、小字古池の水田を国分尼寺跡に比定した。さらに、その東南の台地に塔ノ窪の小字が遺存するところから、それを尼寺の塔の遺址と解した。従って、おそらく永山は小字古池を中心として、その南の一段高い台地の北辺をも含むほぼ1町半程度の寺域を想定していたのだろう。
人神(にんじん)は尼寺(にじ)が変化したものというわけか。なるほど。ただ、このあたりは住宅が密集しており、史跡としての整備は難しそうだ。
美作国建国1300年の今年、10月12~13日の土日に美作国分寺跡などで第9回全国国分寺サミット2013が開催されるそうだ。ぜひ多くの方に美作の魅力を味わってほしい。よい季節なので、天候に恵まれるのを祈るばかりだ。
今日の天候は不安定だったが、帰りの電車の中で奇跡のような風景を見た。東の空に尼寺、ではなく虹、その下には公園の桜。すぐに消えゆく偶然の色彩美であった。消えゆくからこそ美しかったのだろう。美しい風景に美しい人、変わらぬもののない世で、記憶だけでも留めておきたいものだ。その時、聞いていたのは、world’s end girlfriendのStorytelling, Againであったが、目にするものをいっそう印象付けたのであった。
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