「八橋」を「やつはし」と読んだら、京都の銘菓「八ツ橋」を思い出す。三角形でニッキ風味の柔らかいお菓子のことかと思ったら、それは「生」のほうで、本来の八ツ橋は琴の形をした焼菓子だった。
それもそのはず、近世箏曲の祖八橋検校(やつはしけんぎょう)にちなんだお菓子なのだから。そう主張するのは聖護院八ッ橋総本店である。これに対して本家八ッ橋は、『伊勢物語』に登場する三河八橋の八枚橋の板の形を模したお菓子だと説明している。
その三河八橋には名鉄の駅があり「みかわやつはし」と読む。いっぽうJRにも八橋駅があるのだが、こちらは「やばせ」と読む。駅前に城跡があるので、今日はそのレポートをする。
鳥取県東伯郡琴浦町八橋に町指定史跡の「八橋城跡」がある。ちょっとした公園にしか見えないが、山陰線をまたぐ大きな城だったらしい。
伯耆の東西をつなぐ交通の要衝に位置する八橋城をめぐって、各勢力が争奪戦を行ってきた。説明板を読んでみよう。
この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。中世、行松氏の居城で大江城とも号した。
大永四年(一五二四年)ここを攻略した尼子経久は城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は杉原盛重に城を守らせた。天正年間に入り織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰での毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備が進められた。「伯耆民談記」によれば東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。豊臣治下では南条氏が領有したが、関ケ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。
元和三年(一六一七年)池田光政が鳥取藩主になったとき一藩一城制で廃城となる。寛永九年(一六三二年)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。
津田氏の菩堤寺体玄寺(南西二〇〇m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑十一基が往時を偲ばせている。
平成十六年九月 琴浦町教育委員会
説明板を読むだけでも伯耆の戦国史が理解できそうだ。今回注目したいのは慶長十五年(1610)に城主となった市橋長勝で、元和二年(1616)までこの地域は石高二万一千三百石の独立した「矢橋藩」であった。八橋地区にとっては、まさにうちの殿様ということになる。
この市橋長勝は、信長、秀吉、家康それぞれのもとで活躍するという世渡り上手であった。そういう武将には、常識にとらわれず何でもできる度量があるらしい。近世初期に成立した『老人雑話』の乾之巻に、信長に仕えていた頃のエピソードが紹介されている。
信長の士、市橋下総守は放狂の者也。若狭の武田家より信長へ使者あり。威儀正くして広間に控へたり。下総のぞき見て、如何さま仕付方(しつけかた)知り顔にて、見たくもなき奴也とて、使者の前に出て、仰き臥て足を使者に向け、手を以て陰嚢(いんなう)を捫て、御使者是程の餅をばいかほどやらんと云へり。後信長聞て笑て不止(やまず)とぞ。
正直言って気色悪い奴だが、晩年には家康から次のように信頼されていたという。『常山紀談』巻之二十三「東照宮松倉市橋堀桑山別所五人へ御遺言の事」より
東照宮御病気重きに及びて、台徳院殿も側に御座します。鈍帳の際に松倉豊後守重正、市橋下総守正総、堀丹後守直倚、桑山左馬助、別所孫三郎を召され、此五人忠ある者なり。且大坂大和口にて武功あり。能く将軍に仕へ奉れ、と仰せられしかば、皆涙を流して只兎角の詞無かりける時、又、別所は禄少けれども、此後も取わけ忠あるべき者なり。
この後、別所の武勇伝が続くのだが、注目は市橋長勝が家康から後事を託される五人のうちの一人だったことだ。ここぞいうときに頼りになる盤石の安定感があったのだろう。元和二年(1616)の国替で越後三条を与えられた。同時期に堀直寄は越後長岡、松倉重政は肥前島原を与えられた。松倉氏はのちに大規模な一揆につながる苛政をしくこととなるが、幕府への忠義心が強すぎたのだろうか。ちなみに桑山一直の大和新庄の領地はそのままだった。
市橋長勝が越後三条に移ったのち、因伯両国は池田氏の領地となる。本家筋の光政時代に八橋を預かったのは、のちに岡山藩家老(片桐池田家)として備前周匝を領した池田長明であった。その後、国替で藩主は分家筋に替わったが、家老の支配地としては変化がなかった。
こうして振り返ると、放狂とも評された市橋長勝を藩主にいただく独立藩であった時代は、八橋の地域史においてもキラリと光るように見えるが、どうだろうか。
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