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吉備における古墳の終焉

長く続いていた事物が一気に終焉を迎えることが歴史ではよくある。パラダイムシフトである。むかしは「ダイヤル回す」というフレーズを流行りの歌でよく聞いたものだ。期待と不安が交錯する思い、あるいは切ない回想を象徴する場面だが、今やダイヤルそのものがなくなった。封建時代に当たり前だったちょんまげも時代劇で見るだけである。銅鐸も謎の終焉を遂げている。

古墳はどうだろう。突如出現した前方後円墳は次第に巨大化し、また小さくなっていく。古墳が小さくなる代わりに横穴式石室が発達するが、前方後円という墳形は長く維持された。その古墳も7世紀になるとほとんど築かれなくなってしまう。本日は吉備路の古墳、最後の姿をお届けしよう。

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総社市上林に「江崎古墳」がある。県の史跡に指定されている。

こうもり塚古墳は備中国分寺五重塔とセットにして訪れる人が多いが、江崎古墳にまで足を延ばす人は少ない。こちらにも見事な家形石棺が安置されている。説明板を読んでみよう。

県指定史跡
江崎古墳
昭和六一年四月四日指定
本古墳は、前方部を山側に向けた全長四五メートルの前方後円墳で、後円部の一部を除き周溝がめぐっています。前方部幅二五メートル、後円部径三ニメートル、二段築成で円筒埴輪をもっています。
西に開口する横穴式石室は、両袖式で全長一三・八メートル、玄室長六・六メートル、玄室最大幅二・六メートルで、羨道には角礫を用いた閉塞施設がよく残っています。
玄室にはこうもり塚古墳と同じ貝殻石灰岩(浪形石)をくり抜いた家形石棺があり、棺内には攪乱された状態で人骨二体分と金環一対、ガラス小玉約一一〇が残っていました。人骨は成人の男性と女性で、ともに身長一五七センチ前後と推定されています。
石室床面からは獣形鏡一、耳環一対、鉄刀五、鉄鏃一三〇以上、馬具、須恵器九〇以上、土師器一〇余など大形横穴式石室にふさわしい多種多量の遺物が出土しています。
本古墳の築造は、出土遺物などからこうもり塚古墳よりやゝ新しい六世紀後半と考えられ、この地域最後の、そしてまた吉備最後の前方後円墳のひとつとして、大きな意義をもつものです。
昭和六一年四月
総社市教育委員会

浪形石については「浪形石石棺の未指定古墳」でまとめている。この石材はハイクラスな古墳である証拠だ。こうもり塚古墳に続いて築かれ、最後の前方後円墳になったという。権力・権威をどう見せるか。パラダイムシフトが胎動を始めている。

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総社市下林に未指定の円墳「鳶尾塚(とびのお)古墳」がある。いきなり巨石が迎えてくれる。

県古代吉備文化財センターによれば、石室長12.5mであり、天井石の長さは5mだという。そしてこれが吉備路最後の古墳となった。つまりこの巨石墳は吉備における古墳の到達点なのだ。

歴史で「最後の」というと、「最後の将軍、最初の撮り鉄」の徳川慶喜のように、時代の終焉にありがちな哀愁が感じられるが、この古墳はさにあらず。古墳一族が新興勢力に倒されたわけではない。

おそらくは仏教の広まりにより、社会が大きく変化したのだろう。それは火葬が普及したことにより古墳が不要になったという単純な理解ではいけない。古墳はお墓である以上に権力・権威の象徴であり、その築造は公共土木事業であった。

時代は変われど、権威は目に見えることが必要だし、労働社会を維持するために公共事業は必要だ。民衆は古墳造営によって得ていた労賃を、寺院造営によって得るようになった。寺院は権威の象徴として、豪族の支配を安定化させた。

あの巨石を扱う技術はどうなったのか。江崎古墳、鳶尾塚古墳、そして緑山古墳群、これらの古墳と同じように大きな石が、北側の栢寺(かやでら)廃寺跡にある。塔心礎である。公共事業は寺院建築へと移り、色鮮やかな層塔が人々の心をつかんだことだろう。


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