「古墳女子」というニッチな萌えフィールドがあるが、実際に出会ったことがないので、都市伝説の類だろうと思っている。今日紹介する古墳を訪れた際に、史跡巡り御一行が先客としていらしたが、「萌え」という雰囲気ではなかった。
古墳に行ったら石室の中を見学することをお勧めしたい。巨石で囲まれた非日常的な空間、まさに、イザナミが来るなの言ったのにイザナギが入って行った禁断の場所である。
もっとも、遺骸の安置された部屋だから、覗き見るのが不謹慎なのは当然だが、巨石古墳を築造した先人に敬意を表し、謹んでレポートさせていただこう。
奈良県生駒郡平群(へぐり)町春日丘(かすがおか)一丁目に「烏土塚(うどづか)古墳」がある。全長約60.5m、平群谷最大の前方後円墳で、国指定の史跡である。石棺は二上山産の白色凝灰岩である。葺石はなかったようだ。
この古墳は巨石を使った石室が見どころだ。遺骸を安置する場所を、特に「玄室」という。そのWHDは190×440×600(cm)である。 写真では見えていないが、天井が高いのである。
築造はいつなのか、被葬者が誰なのか、気になるところだ。平群町教育委員会の説明板には、次のように記されている。
築造時期は古墳時代後期の六世紀後半と考えられ平郡氏族長の墳墓であると推定される。
平郡氏といえば、大臣として活躍した平群真鳥(へぐりのまとり)が有名だが、5世紀後半から6世紀初頭の人物と考えられるので、この古墳の主ではない。
6世紀後半の平郡氏を『日本書紀』で探すと、「崇峻即位前紀」の用明天皇二年(587)7月条に、「平群臣神手(へぐりのおみかみて)」の名が見つかった。物部守屋を攻める蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)の軍に加わっているのである。
文献に残された記録と考古学的知見がどれほど一致するのかは分からない。ただ、平郡氏が蘇我氏の傘下で確固たる勢力を築いていたことが想像でき、烏土塚古墳がその象徴のように見えるのである。
烏土塚古墳の北に「西宮(にしのみや)古墳」がある。一辺約36mの方墳で、県指定の史跡である。石棺は播磨の竜山石である。
三段構成で墳丘全体に貼石が施されていたというから、築造当時は緑の中に映え、輝いて見えたことだろう。写真から分かるように玄室も丁寧なつくりだ。烏土塚古墳と比較するためWHDを示しておこう。180×180×360(cm)
古墳は時代によって特徴が異なる。巨大な前方後円墳、巨石を使った横穴式石室、そして特色ある墳形。三段構成の方墳という西宮古墳はいつの時期の築造だろうか。奈良県教育委員会の説明板には、次のように記されている。
七世紀の中頃から後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として重要である。
この時期の平郡氏を『日本書紀』で探すと、「天武十年紀」(681年)三月条に「平群臣子首(へぐりのおみこおびと)」の名が見つかった。『帝紀』の編纂を行った人物である。天武天皇からの信頼があつく、方墳を許された。そんな想像をしたいところだ。
これら二基の古墳の位置関係に注目だ。下の写真のように、烏土塚古墳の後円部から真北を望むと西宮古墳の石室が見えるのだ。この一直線は単なる偶然ではあるまい。烏土塚を意識して西宮古墳が造られている。
こんなパワースポットなら、古墳女子がいてもよさそうだ。生駒山も望むことのできる広い風景は、そこにたたずむだけで心が癒される。女子力がUPするというか、人としての力がみなぎるような気がしてくる。
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