英雄は死なずと生存願望があることから、源義経が大陸に渡って成吉思汗になったとか、西郷隆盛がロシアのニコライ皇太子とともに帰朝するとか、荒唐無稽な説が世間の口の端に上ったことがある。
あの大塩平八郎にも生存伝説がある。大阪市天王寺区城南寺町の龍淵寺にある秋篠昭足の墓には、「泛海遁于天草」「航入清国」「大塩父子避跡欧羅巴」と刻まれている。天草、清国からヨーロッパへ逃れたというのだ。
「かもしれないな」と人々が噂したのは、義に生きた平八郎の志に共感しているからであろう。正論ばかりでは生きていけない世の中にあって、正しい在り方を明らかにし、乃公出でずんばの気概で立ち上がった学者にして元幕吏。知行合一の求道者である。
小野市新部町(しんべちょう)に「堀井儀三郎招魂碑」がある。すぐ向こうは陸上自衛隊の青野原(あおのがはら)駐屯地だ。大塩の乱関係者の史跡では最西端ではなかろうか。
私塾「洗心洞」には平八郎を慕って多くの門弟が学んでおり、決起には二十数名参加した。堀井儀三郎もその一人である。ただし、平八郎の志に共感しても直接行動からは距離を置く門弟も多かったという。そりゃそうだろう。冷静に考えるなら秩序を乱すテロ行為である。高い志が後世に高く評価されても、義憤だけで世の中は変えられない。
儀三郎は平八郎に心酔していたのかもしれないし、やれるところまでやってみようと腹をくくって参加したのかもしれない。ともかく決起から崩壊まで乱に関わった。森鴎外『大塩平八郎』にも「播磨加東郡西村百姓」として登場する。百姓と言っても庄屋クラスの富農で、大坂に出て学ぶくらいの余裕があったのだろう。
碑文は『加東郡誌』に掲載されているが、やや不正確なので現物も見ながら書き写してみよう。
掘井君義三郎招魂碑
鳴呼此吾親族掘井君義三郎招魂之碑也君諱碩字寛
卿号裕斎義三郎其通称播之加東郡西邨民也考諱峰
房通称源兵衛君其第三子以文化十四年丁丑生文政
七年甲申三月齢甫八歳従明善寺僧大道習字十年丁
亥二月従井上謙斎読書天保二年辛卯五月又従大野
益堂読書五年甲午正月遂入大塩平八郎門受其学平
八郎者大坂市尹属吏也夙修陽明王氏学自信大過遂
唱罷幕政復■王権之説会歳大飢道殣相望平八郎欲
乗機挙兵先迫坂府因嘯聚同盟砲撃市街豪富家坂府
亦有備事不克戮死而君与焉寔天保八年丁酉五月十
日也春秋二十一哀哉抑平八郎之挙国憲■不容固不
免於反名雖然其志亦非為一身計者況在君則唯知死
其所師何暇問順逆比之於彼就利忘恩以苟免者不啻
霄壌也可不謂義哉今也日積年累遭世運一新嗣子直
豪親族諸友追慕其志操相謀建石於其郷西邨青野原
以招魂焉因係以銘曰
師徳不負 慷慨結纓 志決於死 義重於生
青野之原 爰表偉跡 魂其来乎 巍然其石
明治十三年五月
松平惇典題額 掘井半介撰 井上松香書
これは我が親族、堀井儀三郎の招魂碑である。諱は碩、字は寛卿、号は裕斎、儀三郎は通称。播州加東郡西村の人である。父は諱が峰房、通称を源兵衛といい、儀三郎はその第三子である。文化十四年(1817)生まれで、文政七年(1824)三月に八歳にして初めて明善寺の僧大道に字を習い、同十年(1827)今の小野市古川町の儒医井上謙斎について読書し、天保二年(1831)五月に今の加西市北条町の漢学者大野益堂についてさらに読書し、同五年(1834)正月についに大塩平八郎の門に入り教えを受けた。平八郎は町奉行所与力として大坂を治めた幕吏であった。早くから陽明学を修めたが自信過剰となり、遂に幕政を否定し王政復古を志向するようになった。天保の大飢饉となり餓死者が続出するに及んで、平八郎は挙兵し奉行所に迫った。民衆に蜂起を呼び掛けて共に市街の富豪を砲撃した。奉行所は日頃からの防備により倒すことができず、儀三郎には刑死が与えられた。実に天保八年五月十日のことで、齢二十一。哀しいかな。平八郎の挙兵は国権に相容れず逆賊の名を免れない。しかれどもその志は一身の利益を図るものではなく、儀三郎にあってはそこで師とともに死すべきものと理解していた。どうして良し悪しを問う間があろうか。利益ばかり追い恩を忘れ逃げおおせた者に比べるなら、雲泥の差である。これを義と言わずして何と言おう。歳月を経て明治維新の今日、子の直豪と親族友人はその志を追慕し、相談して故郷西村の青野原に顕彰碑を建て祭祀することとした。よって義挙を称えて詠む。
師の徳に劣らず 不正に憤って決起する 死をも恐れぬ志 生においては義を重んじる
青野ヶ原 ここに偉人の事績を示す 魂が来たりて 顕彰碑は堂々と立つ
題額の松平惇典は姫路藩の家老で、藩校好古堂の督学を務めた儒者である。尊王攘夷派を弾圧した「甲子の獄」を推進したが、維新後の報復「戊辰の獄」で嘉禄没収となった。彼もまた義に生きた人物だ。井上松香は好古堂書学寮教授の書家である。
挙兵崩壊後、平八郎は逃亡し現在の大阪市西区靱本町で爆死を遂げた。儀三郎は奈良で捕らえられ鷗外の作品では獄門に処せられたとされるが、牢死したともいう。師に対しては忠、世に対しては義を尽くした儀三郎。志を遂げられず無念であったろう。ゆえに問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと。そは汝がために鳴るなれば。