海に囲まれた我が国は、国境を身近に感じることがほとんどない。だが、国内には国境がたくさんある。旧国の境である。今も都道府県境に引き継がれていることが多いが、そうでないケースもある。
歴史を振り返れば洋の東西を問わず、土地の境目が移動することはよくあった。その多くは戦争によるものだったが、我が国内部の国境ではどうなのだろう。本日は播備国境と兵庫岡山県境をめぐる物語である。
赤穂市鷆和(てんわ)と福浦(ふくうら)の境近くに「播磨備前国境石」がある。
ここは兵庫県赤穂市。岡山県境はもっと西、福浦峠にある。これは福浦地区が昭和38年に赤穂市に編入されたためで、このことは以前の記事「マージナルな場所には魅力がある」で紹介した。正確な編入区域は昭和38年7月17日自治省告示第106号に示されている。読んでみよう。
地方自治法第7条第3項の規定により、岡山県和気郡日生町の次の区域を兵庫県赤穂市に編入する。
右の境界変更は、昭和38年9月1日からその効力を生ずるものとする。
兵庫県赤穂市に編入する区域
岡山県和気郡日生町大字福浦の区域(字二本桜、東山𡽶、入山口、向ヒ、名畑、舟木谷、前、背戸山、田ノ奥、鹿久居島及び取揚島の区域を除く。)及び大字福浦地先海面のうち真尾鼻突端から綱崎突端まで引いた線以内の区域
このように告示される以前は、福浦地区は岡山県、鷆和地区は兵庫県に属していた。つまり、播備国境と兵庫岡山県境は一致していたのである。鷆和という地名にも歴史がある。江戸時代には赤穂郡の真木村と鳥撫(となで)村で、明治になって真と鳥が和するということで鷆和となった。難読なためか駅名は天和と表記している。
播磨国赤穂郡真木村は備前国和気郡福浦村、福浦新田と境を接していた。その名残が本日の「播磨備前国境石」であり、昭和半ばまで維持された兵庫岡山県境であった。道沿いにある標柱には、次のように記されている。
播磨備前国境石
高さ一九〇cm、幅三〇cmを測り、表に「従是取揚島見通シ」とあり、下部に「東播磨國」「西備前國」と並記され、右に「従是東播磨國」、左に「従是西備前國」と刻まれている。
赤穂市教育委員会
ここで注目したいのは海上に設定された国境。この国境碑と東南東沖にある「取揚島(とりあげじま)」を結ぶラインである。国境碑の東側も西側も兵庫県赤穂市となり、県を分ける境界石としての役目は失われたが、碑に刻まれた取揚島だけは今も生き続けている。この島は岡山県備前市と兵庫県赤穂市とで分け合っているのだ。
ちなみに取揚島の地名由来は、江戸初期に播磨・備前国の間で島の領有権争いがあった時に幕府が取り上げたためだという。今や微笑ましいくらいのエピソードに過ぎないが、我が国最大の領有権争いである北方領土問題は何の見通しも持てないくらいだ。