法令など政府からの情報発信は「官報」の発行により行われている。今の時代、ネット配信が当たり前に思えるが、国立印刷局などの掲示板にもアナログ掲示されるそうだ。官報の創刊は明治16年で、その前には東京日日新聞に政府の公式発表を掲載する欄があった。さらにその前、慶応4年から明治10年までは「太政官日誌」という公的な機関紙があった。
さらにその前の江戸時代には、高札という板の札で周知が図られていた。幕府から政権を引き継いだ明治政府もしばらくは高札による周知を続け、高札が正式に廃止されたのは明治6年である。明治6年2月24日太政官布告第68号は、次のように指示している。
自今諸布吿御発令每ニ人民熟知ノ為メ凡三十日間便宜ノ地ニ於テ令揭示候事
但管下ヘ布達ノ儀ハ是迄ノ通可取計従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除キ可申事
かつての高札場が、ところどころ路傍に残っている。本日はその一つを訪ねることとしよう。
井原市美星町黒木に「黒木の高札場」がある。
周知が目的の高札は通りに面した場所に掲げられた。目の前の道は岡山県道407号野上矢掛線であり、この辺りの小字を「札場」という。地理院地図で検索すると、結構「札場」が見つかる。人々が高札に注目していたことの証左だろう。説明板を読んでみよう。
井原市指定史跡
黒木(くろぎ)の高札場(こうさつば)
法度、掟書などをしるした高札を掲げる場所を高札場といい、一般に高札は、交通の多い市場や辻などに掲げ、庶民の間に法令を徹底させることを目的とした。江戸時代にもっとも盛んとなり、明治三年(一八七〇)に廃止された。柵の中に柱を立て、横桟を渡し、屋根を設けている。間ロー・三七m奥行〇・九三mを測る。江戸時代後期の建設と推定される。
指定年月日 平成十七年三月十六日
井原市教育委員会
明治三年ではなく、やはり六年が妥当だろう。江戸時代に各地に高札場が置かれたのは、幕府によるガバナンスの浸透と識字率の向上がある。特に正徳の高札は、「年号も正しき徳の御制札」と詠まれるくらい有名だったそうだ。
高札あるいは制札は古くからの周知方法であり、記録上の初見は『類聚三代格』巻第十八「駅伝事」延暦元年十一月三日の太政官符「応禁断上下諸使尅外乗馬車」の一節、「諸国承知牓示郡家并駅門。普使告知者。」とのことである。
長い歴史のある高札。黒木の高札場に最後に掲げられたのは、やはり、時代錯誤の定評がある五榜の掲示だったのだろうか。