あるお坊様が死んだ。死んだと思ったら閻魔様の使いが迎えにやって来た。お坊様が閻魔様の前に進み出て「どのようなことでお召しになったのでしょうか」と言うと、閻魔様はおっしゃった。「そもそも、日本には観音さまの浄土という霊地が33か所ある。一度この霊地を巡った者は地獄に落ちることがない。この観音さまは33の姿に変化して人々をお救いになるのだが、このような霊場があっても知る人もない。そのうえ善行をしないどころか悪行を行って死んで来る者が多い。極楽へ行かず地獄に落ちる者が多いことは、まるで夕立の雨のようだ。私はこのことを嘆き悲しむのだが、私自身がつくった罪のむくいだから、心の鬼に責められるのもしかたない。なんとか観音さまの浄土があることを人々に知らせ、ご利益を受け地獄の苦しみを受けないようにさせたいのだが、これを知らせる者がいない。そこで、上人は菩薩の徳を得た名僧なので、観音さまの浄土33か所を知らせたいと思う。これを世に広めたならば、その利益は広大だ。一度でもこの霊場を巡った者は、足の裏から光明を放ち、136の地獄を踏み破る功徳がある。もし間違って地獄に落ちる者があったら、私は嘘をついた罪で、その者の身に代わって地獄の責めを受けよう。」(『西国三十三所観音霊場記図会』より意訳)
兵庫県揖保郡太子町矢田部に「徳導法師誕生地」と刻まれた石碑がある。手前は産湯の井戸である。この左手には徳道上人堂がある。
この徳道上人こそ、閻魔様から33の観音霊場を教わり、「西国三十三箇所」を始めたお方なのだ。これは日本最古の霊場巡りである。江戸時代から巡礼は四国八十八箇所を代表として様々なコースが全国各地に設定されてきた。今でも納経帳に御朱印を頂いて仏様の功徳を得る善男善女が多くみられる。納経帳に御朱印がたまっていくと、達成感も徐々に高まってくる。子どもたちがスタンプラリーを楽しむ感覚に似て、素直にうれしいものだ。
では、徳道上人の事績をさらに詳しく現地説明板に語ってもらうこととしよう。
徳道上人出生の地
上人は斉明天皇六五六年この地(矢田部)に出生、父は辛矢田部(からやたべ)の造、蘇我の諸人である。幼名武若丸、年若くして父母にわかれ、出家入道して徳道上人となる。
各地を巡錫して多くの寺院を建立されたが、中でも大和国長谷寺は有名である。又上人は揖保川の堰を作って水利をよくし、農業をすゝめ、畦焼をはじめて虫害を少なくする等、その功績はまことに大きい。後神亀年中(七二四~七二八)この地に住む。
今に、このところを徳道屋敷という。
徳道上人堂保存会
「辛矢田部の造」は、614年に最後の遣隋使として犬上御田鍬とともに派遣された「矢田部造」に関係しているのかもしれない。徳道上人は、庶民にも旅をする理由を与えてくれた高僧であった。さすがに閻魔様は人を見る目をお持ちでいらっしゃる。