父が天皇でその第一皇子なら、当然ながら皇太子となり、行末は天皇として歴史に名を刻むことになったはずだ。そううまくいかないところが現実であり、皇位継承には権力闘争がつきものである。その典型の一つが保元の乱、兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇の争いである。
高松市番町五丁目の薬王寺に「重仁親王御廟伝説地」がある。
重仁親王は崇徳天皇の第一皇子であったが、すでに天皇自身の意に反して皇太弟が立てられていた。その皇太弟は近衛天皇となるも嗣子なく崩御。この時、重仁親王は皇位にもっとも近付いたのだが、あくまでも崇徳上皇を排除する動きが強く、崇徳のもう一人の弟が即位する。後白河天皇である。
こうして保元の乱に至るのだが、崇徳上皇はあっけなく敗北、讃岐に流されることとなる。子の重仁親王は仁和寺に入り出家するが、父上皇に先立って亡くなってしまう。おそらく京都から出ることはなかったであろう。しかし、この気の毒な皇子への同情は、皇子を讃岐へと連れ出すこととなる。貴種流離譚である。
高松市檀紙町に「重仁親王御廟(旧弁天神社)」がある。
先述の薬王寺はかつてこの地にあったが、高松藩主・松平頼重によって遷されたものである。旧地にある御廟には次のような由来がある。檀紙地区地域おこし運営委員会による現地解説板を読んでみよう。
重仁親王廟(弁天神社)
保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐に配流されていた時、皇子重仁親王は父上皇を訪ねて薬王寺に身を寄せていたが、頭を痛み薨じられる時「我を信ずる者には頭痛を止めむ」と誓願され、人々の治療に霊験高く頭痛神として里人の信仰も篤かったが、世を憚り弁天神社と称した。地区の人々は平成三年一月に薬王寺庵を平成六年四月に弁天神社を改築して、重仁親王廟と称することにした。
崇徳上皇と重仁親王、少しばかり離れてはいるが同じ讃岐の地に眠るのが自然な姿なのだろう。天皇になれたかもしれない親王が頭痛神として信仰されていることも、ある意味幸せなことかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。