ブログ『紀行歴史遊学』はこの記事で500回となる。史跡を訪ねることで歴史を見つめ、自分の生き方をも考えさせられたような気がする。まだまだ知らないことが多すぎる。先師先哲は歴史を生きた数多の人々その人であった。著名人のみが歴史を動かしたわけではない。今の自分と同じように明日の幸せを願って生きた一人ひとりの軌跡が、歴史と呼ばれるようになったのだ。
そう言いつつも、500回記念の大型企画として、梟雄として著名な松永弾正久秀の話をしたい。
奈良県生駒郡平群町信貴山に「信貴山城址」の石碑がある。平群町指定文化財である。
石碑には空鉢護法堂に水を汲み上げるためのポットが置かれていた。ここは信貴山の山頂(標高433m)であり、城の本丸と天守があったのもここである。天守については城郭史上最初期の築造として意義がある。諸書には次のような記述がある。
信貴山城の天守閣は、伊丹城に次いで日本で二番目の天守閣であった。
藤岡周三『松永久秀の真実』(文芸社)
松永弾正久秀は、このとき、殿守と櫓を一緒にした。地形と展望の必要からの考案だった。が、はしなくも、これが、日本の城として、独特なかたちを誇る天守閣の原型をなすものになったのである。このことだけでも、松永弾正久秀の名は本邦近世の城郭史ではもとより、建築史の上からも、永久にその名は消えない。
『歴史の群像5下剋上』所収「松永久秀」(早乙女貢)
現存天守で最も高い場所に位置するのが備中松山城で標高430mである。信貴山城天守も同じように高い天空の城であった。
石碑の隣にある説明板には「信貴山城跡実測図」があり、大規模な城であったことが分かる。中でも北東に伸びる尾根に「松永屋敷」という数段の広い郭が造られているのが特徴的だ。下の写真がそれである。
近世城郭史に名を残す松永久秀も、武将像となると分が悪い。湯浅常山『常山紀談』の記事によると、信長が家康に対して次のように久秀を紹介したというのだ。
東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長此老翁は世人のなしがたき事三ツなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申者なりと申されしに、松永汗を流して赤面せり。
あの信長が言うのだから、よほどの人物だ。そうではあるまい。信長による一揆勢の虐殺や比叡山の焼討も世人のできることではない。戦国の世にありがちだったことを、主従関係の安定した江戸時代になって語ると、そりゃひどいね、ということになる。現代としては、好機を逃さず打って出た松永久秀の積極性を評価してよいだろう。
その松永弾正久秀は、天正5年に至って信長に反旗を翻す。彼が最期を迎えた場所こそ信貴山城である。『歴史の群像5下剋上』所収「松永久秀」(早乙女貢)を読んでみよう。
結局、弾正久秀は、この信長によって、野望は砕かれ、自害して果てることになるのだが、かれが散々、抵抗のあと、信貴山城に追い詰められると、信長の欲していた名物平蜘蛛の釜を微塵に砕いて、天守閣から、麓を押し固めた織田勢を見おろして従容と切腹するのである。
この死にざまには幾つかの説がある。平蜘蛛の釜を砕いて粉々になったものを、錦の袋に入れて首にかけ、天守閣から、身を躍らせて、死んだとか、これを敵陣へ届けさせて、寄せ手の佐久間信盛が開き見て驚愕したころを見はからって、天守から身を躍らせたとか、おのれが首に火薬を仕掛け、木っ端微塵になって凄絶な最期を見せたとか、さまざまである。
信長を裏切らなければ、松永家も長く続いたのではないか。それは後の歴史を知る者のみが言える戯言なのだ。当時は石山本願寺と信長との合戦の只中。本願寺を毛利氏が援助し上杉謙信も動き始めた。自分が立ち上がれば続く者も出るに違いない。これらの勢力結集を図れば信長主導の流れを止められるとの打算くらいはあっただろう。
後世からみれば時期尚早といえる。久秀の死後に別所長治、荒木村重と随分と手を焼くことになる謀反が続く。久秀が先鋒として立った時には呼応する者がいなかった。
別の見方もできる。信長の配下にあって冷遇され続けることに対し意趣返しとして謀反したのである。緻密に計算して動くよりも直情的に行動してくれるほうが、人物像としても物語としても面白くなる。
だから、最も好まれる、とは変な言い方だが、よく紹介される死様が「爆死」である。平群町ホームページの「町指定 信貴山城跡」の解説には次のように記されている。
天正5年(1577)、上杉謙信の上洛軍に合わせて石山本願寺攻めの陣を退いて籠城し、織田信忠軍の大軍に包囲されて10月10日に落城、久秀は信長の望んだ平蜘蛛(ひらぐも)茶釜と共に爆死したとされる。
信長めが欲しがる名物平蜘蛛とオレの首だけは絶対に渡さへんで!ドッガーン!というわけだ。乱世を駆け抜けた梟雄の見事な最期である。というか、漫画的に思い描くことができ、ゲームにも登場しそうである。ただし、バーチャルでなければ、たいへん凄惨な場面である。
実際にはどうだったのか。『多聞院日記』という史料がある。多聞院は興福寺の塔頭で、多聞院英俊が残したこの記録は、同時代の貴重な証言として歴史叙述の基礎資料となっている。『増補続史料大成』39「多聞院日記」二から関連部分を抜粋しよう。
天正5年10月6日
昨日五日申ノ刻、於京都松永金吾ノ息(十二・三才歟)、人質タリシヲ、車ニテ京中ヲヒキテ令生害云々、扨モヲヤヲウチノ心中サコソト察ス、母ノ悲ミサラ/ \、乍去久秀成敗トハアリナカラ、無比類浅猿敷事共万/ \也、因果也/ \、
天正5年10月9日
夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天ニ耀テ見了、定テ落居必定/ \也、先以珍重々々、明朝ハ可聞者也、扨モ永禄二年己未八月八日ニ入国以後、悪逆万人悩事幾千万無限事也、大仏殿ヲ始トシテ、念仏堂・受戒堂・千手堂・三如来堂(已上東大寺)、般若寺堂寺一円、善鐘寺一円、眉間寺、僧院・坊舎ニ於テハ、逆修坊・竹林院・尊蔵院、無量寿院・宝徳院・徳蔵院・最勝院・法輪院・摩尼珠院・西薗院・実相院・西林院・聖蔵院・慈尊院・来迎院・西福院・金龍院・龍興院・慈心院・如意輪院・東門院・奥発志院・龍福院・常喜院・利喜坊・正法院・中坊・和喜坊、以上大旨廿八ヶ所歟大旨焼払、其外ナラ中相果事一円彼所行也、於国中者、矢田地蔵堂・松尾寺・三妙ノ文殊堂・竹林寺・片岡タルマ寺・釜口寺・安倍寺・笠寺、在々所々神社・小寺・経論・聖教・仏像・神跡悉以依彼悪行一国一円相果了、大業人罪障之程扨々如何、為丶丶、
天正5年10月10日
戌半時ヨリ信貴城焼了、如何、
天正5年10月11日
昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了、則諸軍勢引云々、先年大仏ヲ十月十日ニ焼、其時刻ニ終了、仏ヲ焼ハタス、我モ焼ハテ也、大仏ノ焼タル翌朝モ村雨降了、今日モ爾也、奇異ノ事也、
大仏殿をはじめ数多くの堂宇を焼き払った仏敵、松永久秀。仏を焼く者は自らをも焼くこととなる。その日は同じ十月十日、その翌日は同じく雨、不思議なことよ、と慨嘆している。久秀に仏罰が下ったのは自業自得のことだが、気の毒なのは織田方に人質として出されていた12,3歳の松永一族の少年である。市中引き回しのうえ首をはねられた。母親の心中いかばかりかとお察し申し上げます、というくらいの同情的な記述である。
『多聞院日記』からは、信貴山城が焼けたこと、松永父子が切腹したこと、首が安土城へ届けられたことは分かる。しかし、平蜘蛛の茶釜を抱えての爆死が史実かどうかは判断できない。一時期は畿内の覇権を握った誇りある武将の死である。このように死んでほしいなど、後世の者が好き勝手に注文できるものでもないだろう。