坂道を登りながら、こう考えた。人生の坂道には上り坂と下り坂ともう一つ、「まさか」というのがあるという。まさかでまっさかさまではシャレにもならぬが、日頃からの用心に越したことはない。ただ、困っている時に助け人はあるものだ。坂道の途中には旅人の心身を潤す施設がある。
八尾市大字神立に「水呑地蔵院」がある。十三街道が十三峠に向かう急坂の途中にある。
実は十三街道を登ったのではなく、高安山駅から歩いて十三峠から下って水呑地蔵に行った。残暑の厳しい頃で、流れる水の涼感に疲れが取れる思いがしたものだ。
どのような由来があるのか、井上正雄『大阪府全志』(大正11年)巻之四・河内国中河内郡北高安村の大字神立の項を読んでみた。
七曲の上に弘法水あり、昔弘法大師の此の地を過ぎしとき、長き坂路に水なくして行人の苦しむを憫み、祈りて出水せしめしものなりと。石の地蔵は置かれて水呑地蔵の名あり、承和三年九月弘法大師の法孫一演慈済和尚の建てしものなりといふ。其の下より清泉湧出し、松杉の老樹二株上に鬱葱として日影を遮るのみならず、摂・河の平野を一眸に収むるの高地なるを以て、夏時には行人之に憩ひ、清泉に渇を医して其の風光を賞せざるものなし。
上の写真が「風光を賞せざるものなし」の眺望である。この日は天候不順で、こちらは曇っていたが大阪摩天楼には陽光が届いていた。
弘法大師の法孫という一演慈済和尚は、「壱演」という真言宗の高僧である。創建の承和3年は836年のことである。『世界大百科事典』の「諡(おくりな)」の項には次のような記述がある。
僧侶の場合の諡には、法名風諡、大師号、国師号などがあった。法名風のものとしては、867年(貞観9)に壱演に慈済と謚したのに始まるが、その数は歴史を通じて数名に過ぎなかった。慈円に賜った慈鎮も、諡である。大師号は僧侶の諡のうちで最も重いもので、866年、最澄に伝教大師の諡を賜ったのが初例である。空海に弘法大師、円珍に智証大師の諡号を賜ったことは、よく知られている。
空海に大師号が贈られたのが延喜21年(921)、最澄に対しては貞観8年(866)。最澄と同時期に、しかも法名風のものとしては最初に諡されたのが壱演である。存じ上げないお方だったが、渇いた喉と心に潤いを施す、かなりの高僧であったに違いない。
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