関所といえば、飲み放題の居酒屋に参集した際に会費を払う幹事さんのことでなければ、箱根の関所を思い出す。箱根関所など近世の関所は治安維持が目的だったが、中世のそれは関銭徴収が目的であった。そうすると飲み会の関所は中世の遺風であり、民俗的に顕彰する価値があろうというものである。
阪南市山中渓に「山中関所跡」がある。
ここは古くは南海道、熊野街道、近世には紀州街道の紀泉国境の宿場として栄えた場所である。この先、雄ノ山峠を越えて紀州へと入る。現代でも阪和自動車道やJR阪和線も通過する交通の要衝である。
私は歩いて峠越えをしたのだが、旅情を味わう余裕はなかった。かつて蟻の熊野詣と貴人が列をなした古道も、現代は和歌山県道・大阪府道64号和歌山貝塚線となり、車のための道となっている。狭い車道の端を身を細くしながら進んだのだった。
モータリゼーションの時代に歩く方が珍しいのだから、肩身が狭くとも文句は言うまい。しかしながら、道中の安全は旅の必須条件である。かつては、盗賊が跋扈するとか道が崩れていて通行できないとか、峠越えには大きなリスクが伴った。そうした事故リスクを無くし峠道を維持管理することは、権力者の重要な責務である。
山中関所跡の説明板を読んでみよう。
この地は、熊野街道(熊野古道)の山中関所跡地で東西から山がせまり、間に川が流れ、関所としては最も良い場所である。
南北朝時代に岸の和田氏の一族、橋本正高氏がここに関所を設けて関銭を課した。
応永二年(一三九五年)長慶天皇が河内の観心寺に法華堂の造営のために、この山中に関所を料所とされたとの記録がある。この関所で課せられた関銭を前記の法華堂の造営のためにつかったものとおもわれる。
村の人は、ここを「ほけんとう」と今でも呼んでいるが「ほっけどう」が「ほけんとう」にかわったものであろうと云われている。なお、この関所は、江戸時代に入って廃止された。
橋本正高氏というと現代の方のようだが、南北朝期の武将で岸の和田氏ということは楠木一党に近いことが分かる。南朝方として活躍したが、天授6年(1380)に戦死した。貝塚市橋本出身の土豪で、貝塚市半田の海岸寺山に石碑「橋本正高戦歿之地」が、貝塚市南町の上善寺には正高の墓碑があるという。貝塚市は紀州街道が通過した場所であり、峠の関所は橋本正高にとって防衛的な役割があったのかもしれない。
応永2年(1395)に長慶天皇が云々というのは、南北朝合一後のことであることに加え、南朝の長慶上皇が前年に亡くなっているため成り立たない。しかも天皇を退位したのは、その10年ほど前のことである。ただし、観心寺は楠木正成首塚や後村上天皇桧尾陵がある南朝ゆかりの寺である。
阪南市教育委員会発行の「はんなんマップ 悠歩みち -熊野(紀州)街道を歩く-」によると、長慶天皇が関銭を集めさせたのは正平24年(1369)のこととされている。それなら整合性がある。つまり、関銭を徴収する実務にあたったのが橋本正高だったというわけだ。
つまり、山中関所は観心寺法華堂の造営を名目に関銭を徴収した場所で、その実態は南朝方の勢力圏を防衛する拠点の一つだったということだろう。