日本史上には三つの幕府が存在したが、権力の頂点のあるはずの征夷大将軍の実力は必ずしも高くなかった。鎌倉幕府では、源頼朝こそ将軍にふさわしい指導力を発揮できたものの、後に続く将軍は飾りに過ぎなかった。「いざ鎌倉」において奉公する対象は北条氏だった。江戸幕府にあっては、家康、家光、吉宗など、実力を備えた将軍が現れた。しかし、基本的には老中が責任を負う政治形態であり、将軍は政治統合の象徴的な存在であった。室町幕府ではどうなのか。今日はこの史跡を通して考えたい。
近江八幡市安土町の桑実寺に「仮幕府跡」がある。この場所に室町幕府が仮に置かれたのは3年ほどのことである。
第10代将軍足利義稙が「流れ公方」と呼ばれたのは、この時代の様相をよく表している。細川政元と対立した義稙が廃立され、明応3年(1495)に第11代将軍に義澄が就くものの、細川高国と結んだ義稙は永正5年(1508)に将軍職を奪回する。やがて義稙は高国との対立により再び放逐され、大永元年(1522)に第12代将軍に義澄の子の義晴が就く。
将軍義晴を擁する細川高国と対立していた三好元長(長慶の父)は、細川晴元とともに義晴の弟である義維を擁していた。大永7年(1527)の桂川原の戦いで高国は元長に敗れ、義晴とともに近江坂本、長光寺へと逃げ去る。こうして生じた権力の空白に成立したのが義維(細川晴元、三好元長)の堺幕府であった。
この間の将軍義晴の動きをまとめると次のようになる。
大永7年(1527)2月12~13日 桂川原の戦い
大永7年2月14日 近江坂本、次いで同国長光寺へ
大永7年7月27日 近江長光寺から同国守山へ
大永7年9月19日 近江守山から同国坂本へ
大永7年10月13日 帰京
大永8年(1528)5月28日 近江坂本へ
享禄元年(1528)9月8日 近江坂本から同国朽木谷へ
享禄4年(1531)2月1日 近江朽木から同国葛川を経て堅田へ
享禄4年2月17日 近江堅田から同国坂本へ
享禄4年7月17日 近江坂本から同国長光寺へ
最後の記事の少し前の6月、細川高国は三好元長に大物崩れという戦いで敗れ自害に追い込まれる。こうした状況において、ついに今日の史跡が登場するのである。『桑實寺遷史』(同寺発行)を読んでみよう。
足利義晴は、大永元年(一五二一年)第十二代将軍になりますが、京都での争乱を鎮定できず各地を転々とします。官位は依然として征夷大将軍権大納言で、近江の佐々木定頼をたより享禄四年(一五三一)八月桑實寺に移住します。以来三ヶ年の間桑實寺を假幕府とし、幕府奉行を始め数多くの文武官が寺中に分宿し、佐々木定頼、朽木植綱等が警護したと伝えています。天文三年(一五三四年)六月義晴は近衛尚道の女を迎え御台所とします。婚儀は六月八日より十日まで三日間桑實寺にて挙げその費用は貮拾貫文と記録されています。
仮幕府があったのは桑実寺の塔頭にあった子院の正覚院で、地図に示した場所にあったと伝えられている。日本海にも通じる安全な朽木谷に逗留していた将軍義晴だが、晴元に与同する浅井亮政が勢力を拡大してきたため朽木谷を逃れた。さらに、高国という有力な後見を失うという状況に陥り、桑実寺の山上に構える観音寺城に拠る六角定頼の庇護を受け、危機を回避しようとしたということだろう。
ところが、間もなく事態は急変する。堺幕府を支えていたのは細川晴元と三好元長であったが、晴元の変節による内訌で享禄5年(1532)に元長が自害し政権は崩壊する。義晴に有利な状況が生じ、さらに確たる権力を固めようとしたのか、正室に日野家からではなく太政大臣近衛尚通の娘を迎えている。婚儀の後の6月29日には入京に備えて近江坂本に移動する。ちなみに、この正室は義晴の死後慶寿院と号して嫡男の13代将軍義輝を支え、最期は永禄の変で義輝と命運を共にする。
将軍義晴が帰京したのは天文3年(1534)9月3日のこと。細川晴元は将軍義晴のもとで管領に就く。そして、混迷する幕府を再建し安定政権を築いた、となればよかったのだが、将軍家や細川氏、三好氏との争いはその後も続き、幕府はますます弱体化していく。今は何もない仮幕府の跡。足利家の殿が近衛家の姫と将軍家の弥栄を夢見た場所であった。
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