高知県に「高知龍馬空港」がある。正式には「高知空港」なのだが、愛称として坂本龍馬の名前を組み込んでいる。略称が愛称となるのはよくあるが、わざわざ画数の多い二文字を入れたところがユニークだ。確かに「高知といえば龍馬ぜよ」とPRとして効果があるような気がする。地域のアイデンティティを何に求めるかは、町づくりの工夫の見せ所だ。
倉吉市関金町堀に「里見安房守忠義終焉之地」がある。正面の祠は「里見忠義主従之廟」である。
里見氏といえば『南総里見八犬伝』であり、その舞台は房総半島南部なのだが、なぜ遠く離れた中国山地に終焉の地があるのだろうか。まずは、旧関金町が設置した説明板を読んでみよう。
房州・館山藩主 里見安房守忠義終焉之地
清和源氏新田氏の裔・房州・館山里見家十代の里見安房守忠義(十二万二千石)が、終焉の地は、ここ伯耆国堀村である。
慶長十九年(一六一四)里見忠義は、安房国館山から、伯耆国倉吉(神坂)に、三万石で転封。(実質四千石とか。)
元和三年(一六一七)下田中へ移住。のちにこの堀村へ移され、三年近く配流の身同様の生活を送った。そして、元和八年六月十九日、二十九歳の若さで悲運の生涯を閉じた。里見氏は、忠義をもって断絶した。
家臣達は、三ヶ月後の九月十九日殉死。主従の墓碑は、倉吉の大岳院にある。
里見忠義の住居跡は、山郷神社の近くであったといわれ、この小祠に、里見主従が、祭祀されている。
大岳院については以前にレポートしているのでご覧いただきたい。説明板により倉吉に転封された後の状況はつかめたが、配流同然に転封された理由が分からない。そこで館山市立博物館の『さとみ物語』を読んでみた。
里見氏改易の理由については、大久保忠隣への連座という公式見解とはべつに三つの理由があったとも伝えられています。そのひとつは大久保忠隣のもとへ米や足軽を送って謀反に加担したこと。その二は館山城を補修し、道をつくり堀を掘るなどして城を堅固にしたこと。その三は家臣を多く抱えすぎていること。これらが幕府への反逆を企てているという嫌疑になったというのです。忠隣の謀反が事実無根であれば忠義の加担もありえないのですが、指摘されたひとつひとつの事実はあったのかもしれません。
(中略)
いづれにしてもこの三箇条についても改易の口実とされただけのことで、里見氏改易の本来のねらいには、大坂との合戦をひかえているという幕府の事情があったと考えられています。それは安房という土地の立地条件が里見氏に災いしたといえるものでした。房総半島の先端にあって江戸への海路の入り口にあたる安房は、軍事的にも経済的にも海上交通の要衝でした。たとえ大坂との合戦がなくとも、江戸の近くに残った大きな外様の大名である里見氏は、いづれ安房から動かされることにはなったでしょう。それが大坂への出陣をひかえているとなれば、背後の脅威を取り除いておくのは幕府として当然の対策だったといえるのではないでしょうか。
なるほど説得力のある見解だ。里見忠義の「忠」は将軍秀忠から偏諱を受けたものであったが、どうやら将軍家からの信頼をつなぎとめることができなかった模様だ。大久保忠隣の孫娘を正妻としていたことも関係あるだろう。
しかし、この悲運の武将が、現在では地域のアイデンティティを形成するシンボルとして活躍しているのである。写真に注目しよう。「せきがね里見まつり」という幟が見える。今年9月2日には第27回倉吉せきがね里見まつりが行われた。倉吉市長と館山市長が出席したということだ。また、8月26日には第6回里見忠義公・里見八賢士顕彰剣道大会が倉吉市内で行われた。
一方、館山市では5月14日に里見氏大河ドラマ化実行委員会がNHKに約3万2千筆の署名を添えて、八犬伝ではなく史実としての里見氏を大河ドラマ化するよう要望した。2014年が曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』刊行200年、里見氏終焉400年に当たるということから、この年の実現を目指していた。
残念ながら2014年の大河ドラマは『軍師官兵衛』となったが、里見忠義主従も地域住民とともに天下を覗っているのかもしれない。