戦いに敗れエルバ島に流されたナポレオンは、戦後処理の混乱のすきに島を脱出、カンヌに上陸した。1815年3月1日のことである。パリに向けて進撃するナポレオンを、民衆は「皇帝陛下万歳」と歓呼の声で迎えたという。百日天下(Cent-Jours)の始まりである。
鳥取県西伯郡大山町御来屋の御来屋港に「後醍醐天皇御腰掛岩」がある。岩の傍に松があるので風情がよい。
皇帝ナポレオンをさかのぼること500年近い元弘3年(1333)閏2月、日本の帝王後醍醐が流刑地を脱出して本土上陸を果たしたのが、この場所である。民衆が歓呼の声で迎えたかどうかは知らないが、少なくとも建武の中興への道程が始まったことは確かだ。この時、次のようなエピソードがあったことが『後醍醐天皇と山陰の伝説』(立花書院)に記されている。
隠岐を脱出して名和湊で、後醍醐天皇がまず足を下ろされたのが、この大岩である。塒家の先祖助右衛門が、この大岩から自分の家まで天皇を背負って案内した。
「塒」は「ねぐら」と読む。後醍醐天皇をかくまった時、雨戸とむしろで囲って御座所としたところ、「これは鳥屋(とや=ニワトリ小屋)みたいだね。今後は塒(とや)と名乗るがよろしい」とのお言葉を頂戴した。そこで、助右衛門の子孫は戸屋を名乗りとしていたが、明治になって「塒」の異訓である「ねぐら」を称したようだ。
見てはいないが、当主の塒さんが今年9月10日の「鶴瓶の家族に乾杯」に出演して名字の由来を語られていたようだ。その塒家が下の写真である。腰掛岩からすぐ南の県道269号線(もと国道9号線)沿いにある。
邸の前には「元弘帝著舩處」と刻まれた石碑があって由緒を伝えている。この石碑は安政五年に、鳥取藩の儒学者であり志士としても国事に奔走した正墻薫(しょうがきかおる)が藩主池田慶徳の命により建立したものである。
この後、天皇は地元の有力武士、名和長年に迎えられ船上山に立て籠もり、倒幕を進めることになる。長年の忠義に感激した天皇のは次のような歌を詠んだ。御製の歌碑が腰掛岩の隣に建てられている。揮毫は名和家第30代当主である。
わすれめや よるべも波の あら磯を 御船の上に とめし心を
(どうして忘れられようか。頼るものもなく荒磯の波に翻弄されていた私を船の上に(船上山に)救ってくれた忠義を。)
ナポレオンと後醍醐帝。帝王が上陸して新たな歴史が始まるかに思えたが、ナポレオンは100日ほど、後醍醐帝は2年余りで夢がついえた。歴史の流れは簡単には変えられぬということか。ただ、ドラマティックな展開に後世の人の心は動いたのであった。
ねこさま
本記事をお目に留めてくださり光栄に存じます。塒家の方々が古い伝えを語り継いでいらっしゃることに敬意を表したいと思います。
また、このたびの典子女王殿下のご婚約内定、誠におめでとうございます。幾久しく幸多かれとお祈りしております。
投稿情報: 玉山 | 2014/05/29 20:29
突然すいません。塒さんの遠縁のものです。血筋的には子孫です。あのお家は凄いですね。約700年も前の話を代々昨日のことのように語っている。私も子供の頃から家族より聞かされて育ちました。高円宮典子女王が出雲に嫁がれるというめでたいニュースがあり、ふと塒家のことを思い出しました。
投稿情報: ねこ | 2014/05/29 18:14