大阪大空襲の最後は8月14日だったと知らなかった自分を恥じる。14日といえば、御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、連合国側への通告が行われた日である。すっかり戦闘も下火になっていたものと思い込んでいた。受諾の通告は午後11時のことだから、確かに空襲とは関係がない。ならば、せめてもう1日早く決断できていたなら…いやもう1か月、2か月早く…。歴史にIFを願う気持ちになる。
大阪市都島区片町二丁目に「大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑」がある。JR京橋駅南口の近くである。
どのような被害があったのか。国鉄京橋駅長による説明板(昭和58年2月)を読んでみよう。
太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、五百名とも、六百名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔らおうと昭和二十二年八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。
この場所で今年も8月14日に、58回目の慰霊祭が行われた。260人の参列者には、地元住民のほかに当時を体験された方や若い世代もいた。一見いやまったく平和なこの場所が「地獄のような惨状」を呈していたなどどうして信じられようか。だからこそ語り伝えてゆかねばならない。
ニュースが伝えるところによれば、シリア内戦は国連とアラブ連盟の仲介によりイスラム教の犠牲祭に合わせて26日から4日間の停戦に入る予定だったが、初日から激しい戦闘が行われ約150人が死亡したという。自動車爆弾の爆発もあったようだ。
地獄は決して過去のものではなかった。史跡になることもない悲惨な戦場が現実にあるのだ。だが、何が今できるというのか。国連が止められないものを誰が止められるのか。ただ私には祈ることができる。それしかできないが、それならできる。過去に思いを致し、現在に目を向け、未来の平和を願うのである。