そうかなと思って調べるとやはりそうだった。坂東市のマスコットキャラクターは「将門くん」である。平将門公生誕1111年を記念して2013年に誕生した。少々のび太に似ている。そのあまりにものんきな雰囲気に、生前の強者将門ならあきれかえるだろうし、怨霊と化した死後の将門も拍子抜けするだろう。
坂東市岩井に「石井(いわい)の井戸」がある。
坂東市は岩井市(いわいし)と猿島町(さしままち)が平成17年に合併して誕生した。岩井の地名の由来となるのがこの井戸である。
この地区は「将門くん」いや将門公の本拠地だけあって、ゆかりの史跡が集中している。近くの石碑には案内を兼ねて周辺の史跡が紹介されている。読んでみよう。
石井之井戸並平将門公史跡
平将門公は坂東に生まれ、早く父良将を亡くし、遺領の荘園を同族らの悪辣な蚕食に抗して護り、更に民人と共に荒蕪地の開墾に汗血を絞った。また数度に亘る同族との闘争の間には己れは病魔に倒れ妻子は殺戮される悲運にも遭遇した。然し屈せず起って敵陣を撃破して大勝を博した。やがて島広山に石井営所を築き、近くに駿馬を調練する富士見馬場を設け、一言神社を守護神とし、薬師如来を祭る延命寺を鬼門除けとした。これよりさき将門公が島広野に居館築造の地を求めて駆け巡る内に喉が渇きどうにも堪えられなった。その時白髪の老翁が「水」と一言叫んで巨石を大地に打ち込んだ。不思議や清冽な水が滾々と湧き出したので将門公は掬って飲み精気をとり戻した。その白髪の老翁こそ一言主命で霊水の湧出口が石井之井戸と伝えられている。いまも石井之井戸は一言神社の社地である。また将門公は石井営所に起居している時は毎朝この井戸で顔を洗ったとも言う。将門公の勇武と不撓の精神と素朴な任侠は生國人の信望をつなぎ崇敬の的となり、天慶二年に数千の将兵を率いて坂東一円を席捲したが翌三年二月十四日の石井北山に於ける藤原秀郷、平貞盛の大軍との激戦で流れ矢に歿した。時に三十八才であった。娘如蔵尼が父将門公の像を刻んで神体に祭り國王神社を建立した。九重桜は室町時代に平家ゆかりの豪族が将門公を追幕して植えたものと思われる。
昭和五十一年NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」放映されたので英雄将門公の波瀾万丈の生涯が全國的に知れ渡った。慈にそれを記念してこの碑を建てる。
一言神社氏子中
碑文の内容を振り返ろう。「平将門公は坂東に生まれ」については父良将の豊田舘を紹介した。「民人と共に荒蕪地の開墾に汗血を絞った」については鎌輪之宿でのことである。「妻子は殺戮される悲運にも遭遇した」は深井地蔵尊での出来事である。
坂東市岩井に「島広山 石井営所跡」と刻まれた石碑がある。ここを拠点として将門は関東を制覇していったのだ。将門の王城建設の地と見なすこともできよう。
将門軍が短期間に勢力を広げることができたのは、その機動力、駿馬を駆使したことによる。相馬野馬追を思い出すとよいだろう。
坂東市岩井に「富士見の馬場」がある。将門はここで軍馬の調練を行った。往時には富士山が見えたことから名付けられている。
将門が守護神としたのは、一言(ひとこと)で願いを聞き届けてくださるという有難い神様であった。
坂東市岩井に「一言(ひとこと)神社」が鎮座する。一言主命(ひとことぬしのみこと)を祭神としている。「みずっ!」と叫んで巨石を大地に打ち込み井戸を掘り当てたというスーパー老人である。
将門が鬼門除けとして信仰したのが弓田不動尊だと以前に紹介した。もう一つあるようだ。
坂東市岩井に医王山金剛院「延命寺」があり、薬師如来を祀って「島の薬師」と呼ばれている。ここも将門が鬼門除けとしたという。石井営所跡から南東にあるが、享保年間以前には国王神社の隣に寺域を構えていた。
写真の山門と奥に見える石製太鼓橋は市指定文化財(建造物)である。中世の雰囲気を漂わせる山門は文安二年(1445)守谷城主で将門の子孫を名乗った相馬氏が建てたものだ。
坂東市岩井に「九重の桜」がある。将門が京の紫震殿から移植したというが、実際には「室町時代に平家ゆかりの豪族が将門公を追幕して植えたもの」だという。その豪族は平守明といい将門の末裔だという。桜は左近の桜であろう。
以上、将門公ゆかりの史跡を巡った。狭い範囲なので散策に適している。上の写真のように、このあたりの風景は広い。雄図を抱くにふさわしい広さだ。将門公がその気になったのも首肯できる。
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