平安京には比叡山延暦寺、将軍の御膝元江戸には東叡山寛永寺とも日光東照宮とも、はたまた東京スカイツリーとも言われているのが、鬼門である。
実はうちのブロック塀も北東隅をあえて欠いている。鬼門封じに他ならない。迷信といえばそうなのだが、無視できないほどの歴史と伝統がある。
坂東市弓田(ゆだ)に「弓田不動尊」が鎮座している。「ぽっくり不動尊」とも呼ばれている。正しくは明王山慈光寺という天台宗のお寺である。
このお不動さまのご利益は、臨終の際にポックリと眠るように大往生ができることである。ふだん「死」は意識から遠ざけられているが、いかに死んでいくかは人生最大の課題と言って過言ではない。
人生何が待っているか分からないとはいえ、断末魔の苦しみだけは避けたいと思うのは自然だろう。ポックリと誰にも迷惑をかけることなく、この世を辞したいものである。
だが先のことは自力ではどうにもならぬので、神仏に祈るしかない。そういう意味では、このお不動さまこそ真に必要な信仰の対象であろう。
ぽっくり不動尊は、あの平将門も信仰していたという。将門も安らかな死を願っていたのか。説明板を読んでみよう。
弓田不動尊の由来
当不動尊は天平十八年(七四六)行基菩薩の高弟が衆魔降伏の道場、真理融通の勝地として安置された。当時は法相宗に属していた。
平安朝中期平将門が営館を石井(岩井)の地に構え、当不動尊を鬼門除けの本尊として篤く帰依した。
(後略)
将門の王城、石井の営所から見て確かに北方やや東寄りにある。将門が建設しようとした理想郷の都を鎮護する重要な役割を持っていたのだ。
平安京を鎮護する比叡山延暦寺の第13世天台座主尊意(そんい)は、平将門の調伏に霊験があったという。将門の乱の地は京から東方やや北寄りに位置する。尊意の調伏はまさに鬼門封じだったのである。
これに対して将門の本拠から見ると、討伐軍の派遣元である朝廷の方角は西方のやや南寄りとなる。これは裏鬼門であった。鬼門を守護していた弓田不動尊の力が及ばなかったのもやむをえまい。
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