渡辺綱といえば頼光四天王の一人として酒呑童子の退治などで活躍する猛者である。その子孫には伯太藩主渡辺氏、平戸藩主松浦氏などがある。今日紹介する渡辺氏も同族である。
常総市古間木(ふるまぎ)の渡辺食品(株)前に「古間木城址」の石碑がある。
史跡は当たりを付けて、そこを目指して行くのだが、古間木城には偶然に出合うことになった。豊田城でも紹介した旧石下町の松﨑良助氏の解説文を読んでみよう。
遠い昔から現代に至るまで厳しい自然と闘争の繰返しの中で、文明を築いてきた先人達の尊い歴史的遺産を重んじてきた国家は栄え、歴史を軽んじ何も学びえなかった民族は常に滅亡への道を辿るといわれる。
夫、この台地は広河(飯沼)鬼怒川及び大沼(古間木沼)に囲繞(いじょう)され律令時代に官牧大結牧が設置されていた。平将門公関八州に覇を唱えし頃は軍馬を調練する軍事拠点であった。牧の主力が大間木(現八千代町)に移るに及んで、古間木と称されるようになった。古間木城は三方を沼、南に掘割土塁を築いた要害堅固な城で、水連の便にも恵まれていた。
「願牛寺縁起」によると、越後に配流されていた親鸞聖人は赦免の身となり、関東に入り、岡田郡の領主稲葉伊予守勝重のもとに身を寄せ(勝重の従弟蓮位房の案内)建暦二年(一二一二)大高山に願牛寺を創建し、東国地方を布教する。
室町時代、結城家は重臣多賀谷氏を下妻に配し、小田家への抑えとする。下妻城主多賀谷家植は文明十四年(一四八二)豊田領北部に侵入南侵行動を開始する。「渡邉軍記」によれば、古間木城主渡邉新兵衛尉宗隆及び長子宗重は、北総の将士と共に古河公方足利成氏に従い、文亀三年(一五〇三)野田城(現野田市)や永正十六年(一五一九)椎津城(現千葉県市原市)等に出陣。公方から感状を受け功により平塚村(現八千代町)を賜る。
戦国争乱弱肉強食の世続き、結城、小田の二大勢力の影響下にありながら渡邉氏は一万貫の領地を克く治め家門を維持するも自衛の為隣城向石毛の館武蔵守と縁を結び、猿島勢と共に下妻多賀谷の南侵に備える。
多賀谷軍は天文四年正月三日、豊田郡を攻め取らんと向石毛城を急襲攻略す。城主館武蔵守は討死、長子播磨は母方の古間木城に落ち、重臣増田、松崎、大類、斉藤等石毛を頼る。永禄年間(川中島合戦の頃)多賀谷氏ふたたび南侵を企てるや、石毛城主政重廻文す。古間木城主周防守勝重初め石塚、羽生、染谷、横瀬等の岡田、猿島の諸将これに応じ、千本木(現千代川村)に多賀谷軍を迎え死闘を繰返すも、結城城主の仲介により和睦す。
天正三年豊田領を手中にした多賀谷氏は、翌年七百余兵を以て古間木城に攻め寄す。城主勝重廻文す。羽生、石塚、花島、大輪の将士これに応じ、二百余兵城に籠り善く防戦す。攻めあぐんだ多賀谷軍は、大高山等に火を放つ。折からの風に煽られ火は城にも及ぶ。城兵は活路を開かんものと城門を打って出て必死に戦うも、衆寡適せず勝重は討死落城す。播磨は敵より勝重の首を奪い返し、落ちようとするが行手を絶たれ多賀谷氏に降る。
守谷城主相馬胤房は相馬、猿島勢を率い、古間木城救援に向かいしが、時すでに遅く、城攻略を果し花島(現水海道市)に陣した多賀谷軍と合戦利あらず、守谷に帰城す。播磨は、のち仏門に入り岩舟山で修行、慶長五年美濃関ヶ原合戦の翌年に下妻多賀谷氏石田方に与するを以て領地没収追放後向石毛城址に法輪寺を建立し祖先の菩提寺を弔う。
光陰ここに四百有余年。城兵が守りの頼みとした沼は、江戸時代中期より濃魂逞しい郷土の先達によって干拓整備され、今は美田となり、城址を偲ぶよすがとて、南方に土塁空濠の一部を残すのみ。兵どもが夢の跡となりぬ。有縁無縁の人々相語らいて碑建立に芳志を為す。嗚呼宣なる哉、温故知新。ここに古間木城興亡の梗概を識し、郷土先人の御霊に捧ぐ。
昭和五十九年青葉五月 石下町長 松﨑良助撰
宣なる哉、ではなく「宜なる哉(むべなるかな)」である。ああ、もっともなことだ。古いことに学ぶことは多い。松﨑町長の解説はいつも美文の長文である。
石碑の手前は土地が低く田となっているが、かつては大沼と呼ばれる湖沼であり、この城は天然の要害であった。この辺りは古間木と古間木沼新田という地名が入り組んでいる。沼新田がかつて沼だった場所なのだろう。
親鸞を招聘した稲葉伊予守勝重の城もここだったと伝えられる。ということは親鸞が古間木城に滞在したということか。
最も詳しく述べられているのは、古間木城主渡邉氏の動向である。結城氏と小田氏の二大勢力の間で勢力を維持していたが、やがて小田氏の影響下にある石毛の豊田氏に与する。これに対し結城氏側の下妻多賀谷氏は天正三年(1575)に豊田氏を滅ぼし、翌年には古間木城も攻め落とす。城主の渡邉勝重は討死したという。
ただし少し異なる情報がある。常総市ホームページに市指定文化財「渡辺備前守元義肖像画」が紹介されているが、そこには次のような説明がある。
北条氏に属していた古間木城は、天正4(1576)年に下妻多賀谷氏に攻められ落城し、元義はこの折に討死したとも伝えられる。嫡男周防守勝重は、この後、多賀谷氏に随身したと見られる記録が残る。
討死したのは父なのか子なのか。いずれにしろ渡邉氏は古間木城を失うこととなる。ローカルな戦いなので分かりにくいかもしれない。当時の対立状況をつかむため、著名な戦国大名に登場してもらおう。
一方の雄は北条氏政で、もう一方は佐竹義重である。北条方には小田氏治、豊田治親、渡邉元義(勝重)がついていた。佐竹方には結城晴朝、多賀谷政経がついていた。
小田原征伐まで続く北条氏VS佐竹氏の構図がすでに出来上がっていたのである。しかし、その後しばらくして江戸幕府が成立するが、その頃には北条氏はおろか佐竹氏もその他の諸氏もこの地に領主として存続していなかった。統一権力による諸大名統制とはそういうことなのである。
その中にあって渡邉氏の子孫は栄え、先祖伝来の地に今も暮らし、先祖元義の肖像画も伝えている。先祖の顕彰はアイデンティティの確立に役立つ。ちなみに元義は綱を初代として36代目になるという。今のご子孫は何代目でいらっしゃるのだろうか。
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