NINBY(ニンビー)というのはNot In My Back Yardの略語で、「つくるのならうちの近く以外でお願いね」のような迷惑施設のことである。最近耳にしたのは、教育施設も迷惑施設の一つだという風聞だ。
保育園では子どもたちの声が騒音呼ばわりされたというニュースを聞くし、小学校近くで強風の日に運動場の砂が洗濯物へ付着して困るという人の話も聞いた。
なんともやりきれない思いになるが、ここは気を取り直して、学校の校舎建設にまつわる深イイ話を紹介しよう。
下妻市鎌庭に「青龍権現老樹碑(せいりゅうごんげんろうじゅひ)」がある。下妻市指定文化財(歴史資料)である。
「せいりゅうごんげん」は一般には「清瀧権現」と書き、善女龍王のことだともいう。雨乞いをすれば叶えてくれるという御利益があるようだ。しかし今回は信仰のことではなく、青龍権現社の7本の大木をめぐる物語である。
碑文を読めばいいのだが、下妻市教育委員会の説明板があるので、そちらを読むほうが分かりやすそうだ。
かつてここに、樹齢四、五百年に及ぶ七本の老木(欅(けやき)五本、杉二本)が空高くそびえていた。鎌庭(かまにわ)の人たちは何代にもわたって「権現様の御神木」と怖れ崇めていました。
そして、その木を仰ぎながら鎌庭の人たちは「ああ、ここが私たちの鎌庭だ」と思うのでした。
十五年にわたる長い戦争に破れた日本は惨めでした。世界無敵と誇った軍隊は壊滅し、戦争の諸因となった古い制度は破棄され、平和国家の建設を約束することになりました。
したがって、学校制度も六・三・三制に改められ、急きょ開設された大形村立新制中学校では、教室が足りず、昇降口の土間の渡り板の上に机を並べ、座って授業を受ける有様でした。
教室も無く、冷えた土間での授業は、成長しつつある子女の健康にも悪影響を与えかねない状態で、村の人たちは深い焦燥に陥りました。
「学校を建設しよう、そして村を興こし国を復興させるのも教育の力だ」と、村の人たちは村民大会において決定しました。
しかし、当時の大形村は貧しく、学校建設の予算などありませんでした。村人の寄付によって建設するより外はなかったのです。
戦争で人手をとられ、農業生産が減ったところへ、海外から何百万もの人々が一度に押し帰され、国民は飢えに苦しんでいました。肥料は不足し、食糧獲得のための供出制度は厳しく、おまけに昭和二十三年はひどい干魃で、そこへ追い打ちをかけるように新円切替で貨幣価値は下り、人々の生活は最悪の状態でした。
そんな時に一戸平均二千円の学校建設費の負担は不可能に近いものでした。そこで、鎌庭の人たちは「青龍権現」への懼(おそ)れと老木への愛着心に哭(な)きながら御神木にすがろうと決意しました。
昭和二十三年十一月二十三日氏子の人々が見守る中で「七本の御神木」は商人の手に渡りました。このことを子どもたちに伝えることが本当の教育であり、「恩義を忘れて何が教育だ」と言う思いにかられながら、昭和二十八年二月二十八日この「青龍権現老樹碑」を建てたのです。
平成五年二月二十五日
そのまま学校で道徳の時間にでも読み聞かせしたらよいような文章である。当時の社会状況もよく分かるし、教育こそ未来への投資だとする村人の熱い思いも伝わってくる。国の発展は教育にあり、米百俵の精神である。平成13年に小泉首相の所信表明演説で有名になったが、決して前世紀、いや一昔前の考えでさえないはずだ。
大形村立大形中学校の新校舎は平成24年に完成した。昭和の大合併による千代川村の誕生により千代川村立大形中学校となり、昭和33年に中学校統合により千代川中学校が創立された。
大形中学校の跡地には大形小学校が入り今に至っている。大形小学校の新校舎の竣工が昭和55年だから、おそらくその頃までは古い木造校舎、あの村人の思いのこもった校舎が使われていたのではないだろうか。
教育は人なり。人の思いが人の心を動かすのである。「青龍権現老樹碑」は日本でも貴重な教育遺産である。御神木は写真の中に残るのみだが、碑の由来はいつまでも語り継いでいきたいものである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。