以前に「新しき村」をレポートしたことがある。武者小路実篤の理想郷である。権力や支配とは無縁に暮らし、生産に励んで天命のままに生きる。
関八州を戦乱に巻き込み、不遜にも「新皇」を僭称した平将門も、実は農民の理想郷を建設しようとしていたのだ、という話をしよう。
下妻市鬼怒(きぬ)の千代川公民館前に「平将門公鎌輪(かまわ)之宿址碑」がある。
このあたりには将門の史跡が多いが、この地は将門の本拠地の一つとして重要である。「建碑由来記」を読んでみよう。
桓武帝五代の孫、平将門公は鎮守府将軍良将公を父として、坂東の地に生れ、若くして、太政大臣藤原忠平公に仕え、京に在ること十二年、都の腐敗を目の辺りにして、もだし難く、兵を忘れ、自ら汗して原野を拓きつつ、衆庶と共に平和に生きようと発念、相馬御厨より豊田郡に移り、ここ鎌輪(鎌庭)を本郷と定めた。
この地は、常総の沃野に連なる八十余町、毛野(鬼怒)の豊かな流れが。三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった。
しかし、同族等に幾度か挑戦され、鎌輪に在ること七年にして、やむなく石井(岩井)に移り、悲運に仆れた。
千有余年の今日、公の真姿が理解され、賛仰の声と変り、私達は郷土の誇り高い歴史をかみしめている。
幸いゆかりの地の一隅に、村民憩いの緑地公園が造成されるので一同あい議り、ここに記念の碑を建てる。
昭和五十一年八月 村民一同建之
昭和51年といえば、『風と雲と虹と』が放映され将門の再評価が進んでいた。8月9日に碑の除幕式が行われ、翌日に将門公供養盆踊大会が開かれた。この碑も将門ブームに合わせて建てられたのだろう。
近くに旧千代川村役場(現下妻市役所千代川庁舎)があるが、このあたりの地名「鬼怒」は、昭和53年に役場が移転される以前は「廃川敷(はいせんじき)」と呼ばれていた。
結城郡千代川村は昭和30年から平成17年まで存在した。マンホールの蓋には村の鳥ひばり、村の花さくら、村の木けやきがレリーフされている。中心のデザインは村章である。
この辺りを航空写真で見ると、今も川の流れていた痕跡を確認できる。鬼怒川が今の流れになったのは昭和10年のことである。それまで「鎌庭(かまにわ)」という地域は三方を川で囲まれていた。由来碑の言うように「毛野(鬼怒)の豊かな流れが三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった」のだ。
ただ考えてみると、碑のある場所は川が流れていたわけだから、「鎌輪之宿址」そのものではないはずだ。鎌輪(かまわ)は現在の鎌庭(かまにわ)と考えられる。同地内を探してみよう。
下妻市鎌庭に香取神社が鎮座している。
この神社は天文二年正月十五日に下総一宮香取神社から分祀されたという。社前に鎌輪の宿に関する説明板があるので読んでみよう。
平将門公鎌輪之宿址案内
平安時代中期(九四〇年)に描かれた将門記に、「四月二十九日豊田郡鎌輪之宿に還る」とあるのはこの地である。
当時、鬼怒川は水量豊かに流れて三方を囲み、八十町歩の平坦な野場は肥沃で、都の腐敗をいとい、農民の苦しみを看るに忍びず、相馬御厨下司職を捨て大地を開いて自ら生きようとした公には最適の地であった。
しかし、叔父達の執拗な攻撃にあい、やむなく石井(岩井)の地に移り、悲運の最期を遂げるが、此処こそ平将門本願の地であった。
苛酷をきわめた残党狩りに、人は去り、舎屋は焼かれ、千年の歳月はその遺跡を埋没してしまったが、公が本館の所在は、古老の伝承によると「大字鎌庭字館野(新宿地内)」である。
市民の皆さんをはじめ、公の大志を慕って訪ね来る方々のために、史書に従い伝承を参考にして案内します。
平成二年三月十七日 下妻市教育委員会
建碑由来記とよく似た内容だが、こちらにしか書かれていない情報もある。鎌輪の宿が実際にあったのは「大字鎌庭字館野(新宿地内)」だという。鎌庭地区の中央部らしい。ただし、この香取神社の辺りだという説もあるそうだ。
若き将門は京に上って藤原忠平に仕え、12年間過ごした後に相馬御厨の下司職を得て東下する。その後、「農民の苦しみを看るに忍びず」「大地を開いて自ら生きようと」して、鎌輪(鎌庭)の地に理想郷を建設しようとした。しかし、親族との争いが拡大する中で、やむを得ず石井(いわい)の地に営所を築いて移ることとなるのであった。
ただし一次史料『将門記』では、「鎌輪」は一度登場するのみである。相馬御厨の下司になったことも出てこないので、理想郷を建設しようとした話も本当やらどうやら。ともあれ確かな「鎌輪」の記述を確かめておこう。
廿九日を以て豊田郡鎌輪の宿に還る。長官詔使を一家に住まわしめ、愍労(みんろう)を加うと雖も、寝食は穏かならず。時に武蔵権守興世王は、竊かに将門に議(はか)って云わく。案内を検するに、一国を討つと雖も公の責めは軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫く気色を聞かむ、と。
常陸国府を滅ぼした将門は、天慶2年(939)11月29日、豊田郡の鎌輪の宿に帰った。宿に常陸介の藤原維幾と詔使を住まわせていたわったが、二人とも穏やかに寝食をとれなかった。そんな折、武蔵権守の興世王は、将門にひそかに話を持ちかけた。「現状から考えますと、常陸一国を奪い取ったのですから、朝廷からの処罰は軽いはずがありません。どうせなら、関東全域を手に入れて様子をうかがってはいかがでしょう」
この提案に将門は「将門が念(おも)う所は、啻(ただ)に斯而已(これのみ)」(おれの考えも、まさにそのとおりだ)と応じた。そして、12月11日に下野国、15日に上野国と、北関東を席巻し、「新皇」に即位することとなるのである。
そうなると鎌輪の宿は、関東略取の謀反を将門と興世王とが共同謀議した場所とみることができよう。新皇への道はここから始まったのだ。いや謀反のような罪深いものではなく、鎌輪の理想郷を関八州へ広げようとした革命であったと見ることもできるだろう。
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