英雄の妻子は苦労する。大河ドラマ『軍師官兵衛』では、豊臣秀吉が亡くなり茶々と秀頼が残された。再び乱世になろうとしている。残された二人の無残な最期は今回の大河では描かれないが、再来年はそれがメインとなる予定だ。
一代の英雄、アレクサンドロス大王の妻ロクサネは大王の死後に嫡子を産み、その子は直ちにアレクサンドロス4世として即位するが、後に母子ともに殺害されてしまう。アレクサンドロス4世は人生の全期間「王」であったが幸福だったとは言えまい。
坂東市沓掛に「深井地蔵尊」がある。
御利益について、堂前の石碑は次のように説明している。
深井の地蔵尊
深井のお地蔵さまは、安産子育てに、霊験あらたかな仏さまと、古くから近郷近在に知られております。
お堂内にまつられているお地蔵さまのお姿は、切れ長の眼やさしい口もとの美しいお顔立ちでその、かざらない面ざしには、人間の感情をはるかに越えた尊さが感じられます。
ご縁日は、毎月二十四日ですが特に正月と、八月のご縁日は参詣者でにぎわいます。
子育てに御利益のある仏さまということだ。少子化の進む現代日本でもっとも大切にしたい仏さまの一つであろう。この地に子育てのお地蔵さまが祀られたのは、平将門の乱に関係があるそうだ。『関東中心平将門故蹟写真資料集』(日本教育文化協会)には、次のように記されている。
もう一つの将門妻子受難の地(猿島町深井)
古文献や往時の地形から、将門記にいう妻子受難の場所はここではないか、とされている地。その悲劇の人々を供養したものか、同地内を流れる西仁連川のほとり、俗に「子育て地蔵」と呼ばれている小祠があり、土地の人々は今なお祭祀を絶やさないという。
「もう一つ」ということは他にもあるということだ。同書に紹介されている他の受難地は「八千代町平塚六軒」という地名で、八千代町大字平塚の南部に位置する。二つの受難地のあたりを航空写真で見ると、細長い湖の痕跡を見出すことができる。
その湖は「飯沼」という。今は農地になって川の名前として伝えられるのみである。それでも遮るもののない広々とした光景を眺めれば、浅い湖があったことを想像するのは簡単である。この地を舞台に平将門の妻を巡る骨肉の争いがあったのである。『将門記』の書下し文を読んでみよう。(山崎謙『平将門正史』三一書房より)
登(その)時を以て、将門は、身の病を労(いた)わり妻子を隠し、共に幸島(さしま)郡葦津江の辺(ほとり)に宿す。非常の疑あるに依って、妻子を船に載せて広河之江に泛(う)かべたり。将門は、山を帯びて陸閑の岸に居る。一両日を経たる後に、件の敵は十八日を以て各(おのおの)分散す。十九日を以て敵の介は、幸島の道を取りて上総国へ渡れり。其の日、将門の婦は、船に乗りて彼方の岸に寄す。時に彼の敵等(ども)は、注人の約を得て、件の船を尋ね取り、七八艘が内に虜掠せらるる所の雑物資具三千余端なり。妻子も同じく共に討ち取らる。即ち、廿日を以て上総国へ渡れり。
爰に将門は、妻を去って夫は留まり、忿怨すること少なからず。其の身は生きながら、其の魂は死せるが如し。旅の宿に習わずと雖も、慷慨して仮りに寝(いぬ)るも、豈(あに)何の益か有らむ哉。妾は恒(つね)に貞婦の心を存し、幹朋(かんぽう)に与(なら)いて死せんと欲す。夫は則ち漢王の励(はげみ)を成し、将に楊家を尋ねむと欲す。謀を廻らすの間に、数旬相隔つるも、なお懐恋する処、相逢うの期なし。然る間に、妾の舎兄等が謀を成し、九月十日を以て、竊(ひそか)に豊田郡に還り向わしむ。既に同気の中を背いて本夫の家に属(つ)く。臂(たとえ)ば遼東の女の、夫に随いて父の国を討たしめしが如し。なお伯父と宿世の讎(かたき)を為し、彼此相揖(いど)めり。
将門は脚気を治すために妻子とともに飯沼に身を隠すことにした。何が起きるか分からないので、妻子を舟に乗せて湖上に避難させ、自分は山を背にして陸閑(むすき、むつへ、むすへ、深井地蔵尊もしくは平塚六軒)で様子を見ることとした。二日ほど経った8月18日、伯父の良兼の軍勢は兵を解いて、良兼自身も本拠の上総に戻っていった。その日、将門の妻が舟を岸へ寄せたところ、良兼の手下が手引きする者の助力を得て、その舟を捕えたのであった。妻の舟を含め7、8艘から三千余りの物資が略奪された。そして妻と子も捕らわれの身となり、20日には上総へ連行された。
将門は妻が拉致されたことに非常に怒った。身は生きながら魂は死んだように感じた。野宿をしているわけではないが、腹の立つあまり寝ようと思っても寝られない。妻は貞節を守る女性で、唐の『韓朋賦(かんぽうふ)』に登場する韓朋の妻にならって、夫のあとを追って死のうと思った。将門は白居易『長恨歌(ちょうごんか)』で玄宗皇帝が楊貴妃のもとを訪れたように、自らも妻を取り戻しにいこうと考えた。何とかできないかと考えているうちに十数日が過ぎてしまった。妻を思う気持ちは募るばかりだが、逢う機会が得られなかった。その間に、妻の兄弟が一計を案じて、9月10日に妻をひそかに将門の本拠豊田郡に向かわせたのである。肉親の家を離れて夫のもとへ帰っていった。遼東の女が夫に従って父の国を討たせたようなものだ。伯父良兼とは宿敵の間柄となり、争いが続くのである。
原文は漢字ばかりで硬いイメージがあるが、将門が妻を思う気持ちが中国の典籍を引き合いに出しながら綴られている。引用文中に「妻子も同じく共に討ち取らる」とあるが、これを殺害されたとする解釈もあれば、生け捕りにされたとする読み方もある。
殺害されたならば、深井の地に母子を弔って祠がつくられ「子育て地蔵」として信仰されるようになった、と解釈できる。生け捕りならば、引用文後段の展開にうまくつながる。将門の妻は伯父良兼の娘であり、そもそも結婚に反対していた父は娘を強引に実家に連れ戻したのだ。将門の乱の原因の一つに「女論」が挙げられるが、以上のような事情があるのかもしれない。
殺害と生け捕りでは大きく違うが、「受難の地」であることは確かだ。そして、この出来事に深く心を痛めたのが将門であった。時は承平七年(937)、この後、将門は反撃に転じ、関東一円にその武勇が知られるようになるのである。
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