来春、皇太子殿下は即位して126代天皇となる。この歴代に数えられるのは南朝の天皇であって北朝ではない。現在の天皇家は北朝の血筋であるにもかかわらず、南朝には正統性が認められている。南朝は戦場に敗れ、歴史に勝利したのだ。
南朝に味方した武将もまた然り。戦場には散れども、名とともにゆかりの地が後世に伝えられている。しかも、児島範長は正四位、大井田氏経は従四位、村上義弘は正五位をそれぞれ贈られるなど、北朝の武将とは扱いがまったく異なる。
西条市楠(くす)の世田薬師奥の院に「大館氏明(おおだちうじあき)公墓所」がある。墓碑には「大舘伊豫守源氏明朝臣之墓」と刻まれている。新田氏から分かれた系統だという。
大館氏明もまた南朝の忠臣で、大正四年に正四位を贈られた。どのように国家に貢献したのだろうか。説明板を読んでみよう。
大館氏明公墓所
(世田城主贈正四位)
南朝の忠臣大館氏明公は、新田義貞の甥にあたり武勇すぐれ、伊予の守護に任じられ世田城主となる。
伊予の宮方(南朝)を守るべく活躍するも、1342年(興国2年)北朝方細川頼春の大軍1万余騎が攻め入り遂に力尽き城に火を放ち17勇士と共に切腹する。時9月3日、氏明38才なり。これを世田山の合戦という。(太平記より)
この墓は1837年(天保8年)氏春(17代)建立する。寺説では左後の小さな墓が元々の墓といわれる。
世田山城はその後も二度の大戦(1364年)と(1479年)がある。
名実共に世田山城は中世伊予の国の防衛の拠点であった。
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大館氏明の母が新田義貞の妹にあたるため、氏明にとって義貞は伯父であり主君であった。世田山合戦があったのは興国三年(1342)である。この頃すでに劣勢となっていた南朝は、事態を打開すべく、義貞の実弟脇屋義助を四国へ送りこんだ。
義助を迎えた伊予守護大館氏明と伊予国司四条有資らは、大いに意気があがったものの、ほどなくして義助が病で急逝してしまう。これを機に攻勢を強めたのが、北朝武将細川頼春であった。続きは『太平記』巻二十二「大館左馬助討死事付篠塚勇力事」で読んでみよう。
斯(かか)りしかば、大将細川頼春は、合戦事散じて、御方(みかた)の手負死人を注(しる)さるゝに、七百人に余れりといへ共、宗徒(むねと)の敵二百余人討れにければ、人皆気を挙げ勇をなせり。さらば軈(やが)て大館左馬助が籠(こもっ)たる世田城へ寄よとて、八月二十四日早旦に、世田の後なる山へ打上て、城を遥に直下(みおろし)、一万余騎を七手に分て、城の四辺に打寄、先(まづ)己が陣々をぞ構へたる。対陣(むかひぢん)已に取巻せければ、四方より攻寄て、持楯(もちだて)をかづき寄(よせ)、乱杙(らんぐひ)逆茂木(さかもぎ)を引のけて、夜昼三十日迄ぞ攻たりける。城の内には宗徒の軍(いくさ)をもしつべき兵(つはもの)と憑(たのま)れし岡部出羽守が一族四十余人、皆日比澳(ひみのおき)にて自害しぬ。其外の勇士共は、千町原(せんまちがはら)の戦に討死しぬ。力尽(ちからつき)食乏(しょくとぼし)く可防様(ふせぐべきやう)も無(なか)りければ、九月三日の暁(あかつき)、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ打出て、塀(へい)に著(つき)たる敵五百余人を、遥なる麓へ追下し、一度に腹を切て、枕を竝(ならべ)てぞ伏たりける。防矢(ふせぎや)射ける兵共是を見て、今は何をか可期(ごすべき)とて、或は敵に引組(ひきくん)で刺違(さしちがへ)るもあり、或は己が役所に火を懸て、猛火の底に死するもあり。目も当られぬ有様也。
(脇屋義助の病没後、南北朝両軍は激しく戦った。)北朝の大将細川頼春は戦いを終え、死傷者を数えてみると七百人以上にもなったが、主だった者二百人以上討ち取ったので、戦意が高揚した。「こうなったら、ただちに大館氏明が立て籠もる世田城を攻めよ」と、八月二十四日早朝に、世田城後方の山に登って城を見下ろし、一万余騎を七手に分けて城の四方を囲み、それぞれに陣を築いた。陣が完成すると四方から攻め寄せ、楯で防戦しながら進むとともに、乱杭や逆茂木などの障害物を取り払い、昼夜問わず三十日まで攻めた。南朝軍では、主力として頼りにされていた岡部出羽守一族四十人余りが、みな日比澳(西条市氷見地区か)で自害した。その他の南朝武士は千町原(西条市国安地区か)の戦いで討死した。城内の武士は、食料が少なく力尽き防ぎようもなくなったので、九月三日の暁に、大館氏明主従十七騎は第一城門に打って出て、城壁にとりつく敵五百人余りを、はるか麓に追い落とし、一度に腹を切り枕を並べて死んでいった。防戦していた城兵はこれを見て、もはや何の思い残すことがあろうかと、敵に組みついて刺し違える者もあれば、自分が守備していた場所に火をかけて焼け死ぬ者もあった。それは目も当てられぬ有様であった。
『太平記』で南朝武士はいつも悲愴な最期を遂げ、日本人の判官びいきという心情を掻き立ててきた。とりわけ水戸黄門が『大日本史』で南朝を正統と認定してからは、南朝に殉じた武士の顕彰が各地で行われた。
天保八年(1837)に子孫の氏春さんが墓碑を建立したのも、尊王思想が高まる当時の思潮に沿ったものだろう。明治になってからは、国を挙げての顕彰へと進み、贈位まで行われた。判官びいきの本家である源義経の扱われ方とは大違いである。
世田山の頂上に登ると、絶景に出会うことが出来る。「永納山(えいのうさん)城」は瀬戸内を防衛する古代山城の一つである。ここ「世田山(せたやま)城」は中世伊予の国の防衛の拠点である。この地が東西交通の要衝であることを示している。
この瀬戸内海沿岸は眺めのとおりの平和で、悲愴な戦いを想像することすら難しい。いま日本の防衛拠点として注目されているのは、山口(萩市、阿武町)と秋田(秋田市)である。イージスアショアの配備計画があるのだ。
このうち阿武町長が先月、配備に反対する考えを表明した。関係自治体の中では初めてだ。防衛拠点ができると町は安全になるのか。逆に狙われやすくなるのでは。ごく常識的な考えだろう。
現代世界は、中世のようなパワー・イズ・ジャスティスは通用しない。外交努力をすることが、最大の国土防衛なのである。