「海賊」はマンガか映画の中にだけ登場するのかと思ったら、法律にも登場する。「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」は、ソマリア沖やマラッカ海峡での海賊襲撃に対処するために、平成21年に制定された。もちろん瀬戸内海での海賊行為にも対処できるが、今や瀬戸内に海賊はいない。
と思ったら、マンホールの蓋にいた。旗印が「丸に上の字」なので、村上海賊の坊や(?)だと分かる。これは旧宮窪町のキャラクターで「のしまくん」という。三島村上氏のなかでも主流の能島水軍の一員なのだろう。
今治市吉海町名(みょう)の高龍寺の境内に「贈正五位村上義弘公碑」がある。顕彰碑である。揮毫は呉鎮守府司令長官の鈴木貫太郎である。終戦時の総理大臣として知られる鈴木は、大正11年から13年にかけて司令長官職にあった。
伊予大島で村上だから村上水軍の関係者だと分かるが、どのような事績があるのだろうか。正五位を追贈されたということは、何らかの国家的貢献があったのだろう。田尻佐編『贈位諸賢伝』(国友社、昭和2)の村上義弘の項を読んでみよう。
伊予の人、世に海賊大将軍と称せらる、義弘北畠顕家の遺子信濃守師清を養子と為す、父子力を戮(あわ)せて南朝の為め報效(ほうこう)を尽す、正平の末、河野通堯を説きて帰順せしめ、後肥後菊地氏の力を借り、伊予に於ける足利氏の勢力を一掃せり
要するに、南朝に対して忠勤を尽した武将ということだ。その功績に対して正五位が贈られたのは、大正8年11月のことであった。
今治市宮窪町宮窪に「義弘公遺跡幸賀屋敷」と刻まれた石碑がある。ここは「幸賀屋敷跡」として市の史跡に指定されている。
見晴らしのよい高台にあって、屋敷を構えるのにふさわしい。14世紀から17世紀初頭にかけての遺物が出土しているので、能島村上氏の本拠地だったのだろう。村上水軍ゆかりの地は、平成28年に「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 ~よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶~」として、日本遺産に認定された。高龍寺も幸賀屋敷跡も構成文化財に含まれている。
日本遺産の名称は長いものが多く、観光ツアーかサスペンスドラマのタイトルかという感じだ。私も話のまくらに「海賊」と言ったが、ソマリア海賊と村上海賊は決して同類ではない。「村上水軍」が妥当だと思うが、人の気を引くにはロマンが感じられる「海賊」が効果的なのだろう。
村上義弘公は北畠顕家の子である師清(もろきよ)を養子に迎え、師清の子義胤(よしたね)の長男義顕(よしあき)は能島村上氏、二男顕忠(あきただ)は因島村上氏、三男顕長(あきなが)は来島村上氏、それぞれの祖となったという。だが、村上義弘も師清も史料的な裏付けが弱く、実在を疑問視する向きもある。北畠氏から養子を迎えたとしたのも、「村上」つながりで村上源氏の血脈と結び付けるためではなかったか。
かつては「貴種」であることが一族の誇りであったが、今では「海賊」をキーワードに観光客を誘っている。こうしたわくわくするようなロマンは、史実とは少々異なるとはいえ、一族や地域のアイデンティティが託されているのだろう。
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