主従関係において奉公の対価として与えられるのは、土地であり金銭であり、姓氏であった。土地は古代から近世にかけて、金銭は古今変わらず授けられてきた魅力ある報酬である。
姓氏はどうだろうか。与えられたのは羽柴、豊臣、松平という名乗りである。池田輝政なんぞ羽柴、豊臣、松平すべて与えられている。どうやら官位のようなステータスの役割を果たしていたようだ。本日は木下氏を与えられた武将を紹介することとしよう。
鳥取県八頭郡若桜町若桜の西方寺に「鬼ヶ城主木下重堅の五輪塔」がある。
木下重堅はどのような人物なのか。地元の史書『八頭郡史考』「若桜鬼ヶ城主木下備中守重賢」の項には、次のように記されている。
重賢ハ、村上源氏ニシテ、荒木新助勝元ノ子ナリ、字ヲ平太夫ト称ス、父勝元ハ応仁文明ノ頃河内国丹南郡ノ城主タリ、永正大永ノ頃将軍足利義晴ニ仕へシカ、近畿ノ朝敵ヲ鎮メ武勲アリ、天文年中三好義賢ノ乱二戦死ス、勝元弟村重ハ摂津茨木城主二シテ、豪爽武略アリ、威國国中ニ震フ、天正六年十一月村重ハ信長ニ叛キ、伊丹ノ城ニ拠ル、仝七年十月城陷リ、男女少長死スル者六百七十人ニ及ヘリ、重賢ハ父死シテヨリ叔父村重ニ養ハレ、信長ニ仕ヘ、武力衆ニ勝レ、信長十勇士ノ一人タリ。天正四年羽柴秀吉中国ヲ追伐スルヤ重賢ハ一面ノ将トシテ播州三木城(城主別所長治)ヲ攻陷ス
ここでは村上源氏だとか荒木村重の甥だとか血統が強調されているが、『陰徳太平記』巻第五十一「荒木村重屬信長幷村重討謦敵事」には、「村重カ嬖臣安都部弥一郎ヲ荒木平太夫ト改名シテ」とある。村重お気に入りの家来、安都部氏だというのだ。
後に名字木下を与えられていることから、村重のもとを離れてからは、秀吉の覚えめでたき武将となったのだろう。鳥取城平定後の因幡で二万石の領地を得て、鬼ヶ城を本拠とし、宮部継潤、亀井茲矩、磯部康氏、垣屋光成とともに因幡衆として活躍した。西方寺にある説明板を読んでみよう。
鬼ヶ城主木下重堅の五輪塔
慶長五年(1600)関ヶ原の役に鬼ヶ城主木下重堅らは西軍に味方すべく出兵したが、途中、西軍大敗の報が届き、敗走する西軍に従い大阪天王寺に隠れたが、その後、自刃した。家来によって遺品、遺髪が西方寺に葬られ、「宝勝院殿前備州大守有山道無」と諡をした。重堅の大五輪の左右に並ぶ七、八十基の小五輪は、天王寺で自刃した家来を含む多くの戦死者であろうか。
法名に「備州太守」とあるのは、天正十五年(1587)に従五位下備中守に叙任されたことによる。運命の関ヶ原では迷うことなく西軍に与して、伏見城や大津城での戦いで活躍したが、これが仇となって切腹を命じられる。
秀吉が荒木重賢に木下を与えたのは家臣団編成の一環であったのだろう。明智光秀も服属した丹波の国衆小畠(こばたけ)氏に名字明智を授与しているから、この時代にはよくあったことなのかもしれない。
小畠氏は光秀滅亡後に明智を返上して秀吉に忠誠を誓ったという。そう考えると、木下重堅が関ヶ原を生き延びたとしても、木下を返上したかもしれない。土地や金銭と違って、与えるのは簡単だが返すのも簡単なのだ。
鳥取県八頭郡若桜町若桜の龍徳寺に「山崎氏の五輪塔」がある。
西軍の木下重堅に代わって若桜鬼ヶ城に入ったのは、西軍ながらも東軍に内通していた山崎家盛であった。家盛の妻天球院が池田輝政の妹だったことも有利に働いた。説明板を読んでみよう。
山崎氏の五輪塔、大銀杏
慶長五年(1600)関ヶ原の役後、山崎左馬允家盛は、鬼ヶ城主に任ぜられ、亡き父堅家の法名である「龍徳院法性覚玄大居士」の龍徳院に因んで、萬祥山龍徳寺と改称したと言われている。境内の大五輪は家盛の遺髪を祀ったと言われており、現在の大銀杏は家盛の子家治が、その目印のために植えたものだと伝えられる。
家盛の治績が記されていないが、鬼ヶ城を近世城郭へと改修し、若桜を城下町として整備したのであろう。慶長十九年(1614)に亡くなり、子の家治が相続した。元和三年(1617)に家治が備中成羽に転封されてから、若桜は鳥取藩領に組み入れられた。独立若桜の栄光を大銀杏が象徴しているかのようだ。