「わたしゃ備前の岡山育ち、米のなる木をまだ知らぬ」という少々謎めいた歌で知られる岡山藩。ずっと池田氏がお殿さまだったが、二代までは分家で三代目に国替えによって本家が入って来た。本日は初代と二代のお墓を紹介する。お墓もすごいし、エピソードもすごい。
岡山市南区浦安本町の清泰院(せいたいいん)に池田家墓所がある。もとは新京橋のたもと国清寺(姫路藩主で岡山藩租の池田輝政・利隆の菩提寺)の西隣にあったが、都市計画のため昭和39年に現在地に移転した。
浦安地区は昭和になって出来た干拓地で、池田のお殿さまも広々した風景の中で気持ちよくお過ごしのことと思う。ここには、おふた方の墓がある。岡山藩主で鳥取藩租となった池田忠継と忠雄の兄弟である。このため藩政時代には寺の維持費を鳥取藩が負担していたという。
姫路藩、岡山藩、鳥取藩に藩租、藩主と少々複雑なので整理しておこう。太祖は慶長5年に姫路藩主となった輝政である。同8年に次男の忠継が岡山藩主に封ぜられたが、幼少のため長男の利隆が監国となった。同18年に利隆は姫路藩主を継いだ。同20年に岡山藩主忠継が亡くなり輝政三男の忠雄が継ぐ。元和2年に姫路藩主利隆が亡くなり子の光政が継ぐ。幼少のため同3年に鳥取へ転封となる。それから歳月を経て、寛永9年に岡山藩主忠雄が亡くなり、子の光仲は幼少のため鳥取へ転封となる。このため、鳥取の光政は岡山へ転封となった。
このため輝政-利隆-光政の系統が宗家で岡山藩主として、忠継-忠雄-光仲の系統が分家で鳥取藩主として存続していく。このため輝政・利隆は岡山藩主ではないが藩祖として、忠継・忠雄は鳥取藩主ではないが同様に藩祖として、それぞれの藩において敬慕された。
清泰院境内に「池田忠継廟」がある。昭和53年に移築された。石塔ではなく霊廟形式の大名墓は、近世初期には多いようだがこのあたりでは珍しい。正面に豪華な葵の御紋がある。これは忠継の母が徳川家康の娘督姫(とくひめ)だからだ。忠継は家康のお孫さんなのである。岡山市教育委員会の説明板(平成22年3月)を読んでみよう。
池田忠継廟 岡山県指定重要文化財 昭和33年1月指定
忠継は岡山池田氏の初代藩主で、慶長二十年二月(1615)岡山城で死去した。廟は、桁行三間、梁間二間の単層入母屋造りで、唐破風や彫刻などに桃山時代の特徴がよく残されている。内部の正面には須弥壇が設けられ、そこに衣冠束帯姿の忠継の坐像が安置されている。また、廟の直下に円形の木棺内に胡座した忠継の遺骨などが、廟の移転に伴う発掘調査により確認され、大名の埋葬形式を知るうえで貴重な成果を得ることができた。
忠継の死をめぐって、とんでもない話が伝わっているので紹介しておこう。記録しているのは寛政年間に岡山藩士が編纂した『吉備温故秘録』である。藩の名誉にもかかわることだから、変なウワサ話を残すわけがないように思える。それだけ庶民の間では有名だったということだろう。『吉備温故秘録』巻之四十三「墳墓」より
良正院殿継子の興国公を憎みなき物として、国清公の遺跡を、悉く忠継公、並、御弟忠雄公へ進らせんとの企ありて備前岡山城中にて、興国公忠継公列座にて、良正院殿御対面の時、饅頭に毒を入て、興国公へ進らせらる。其給仕に出たる女房、痛敷事と思ひ、手の内に毒といふ字を書置て見せ申故、興国公心得給ひて食し給はず、忠継公此企を悟り、興国公の前なる饅頭を奪ひて食せられければ、良正院殿の御顏色、見る内に赤くなり青くなり、色々に変じたりといふ、是は二月五日也。夫より良正院殿は、憤りの余り、毒の入たる饅頭を多く食して、其日、卒去なりとぞいふ。扱、忠継公にも、病気発して同月廿三日逝玉ふ。
継室の督姫さまは、正室の子利隆公を憎んでこれを殺し、輝政公の遺領をすべて我が子である忠継公や忠雄公に継がせようとたくらんだ。岡山城内で利隆公と忠継公が督姫様と対面された時のことである。督姫は毒を入れた饅頭を利隆公の前に差し出した。給仕した女は良心が痛み、手のひらに「どく」と書いて知らせた。それに気付いた利隆公は食べなかったが、母の意図が分かった忠継公は利隆公の前にある饅頭を奪って食べた。督姫は気が動転し、顔色が赤くなったり青くなったりした。2月5日のことである。督姫様はもはやこれまでと、毒饅頭をたくさん食べて死んだ。忠継公も病気になって同月23日にお亡くなりになった。
よくできた話だ。そうかもしれないと思わせる。しかし、これは事実ではない。亡くなったのは確かにその頃だが、この時期に三人が岡山城で面会するのはあり得ないそうだ。ただ、この話が鳥取藩ではなく岡山藩で語られたというところに何か意味があるのかもしれない。
忠継廟の隣に弟忠雄の「芋墓」がある。確かにサツマイモか里芋の親玉のようだ。墓塔としては無縫塔という。古さを感じさせない美しい墓碑で、犬島産の花崗岩とのことだ。左隣の巨大な板碑のような慕塔は殉死した加藤主膳正、右の五重塔は奥方の芳春院の慕塔である。五重塔は加工しやすい豊島産凝灰岩でできている。岡山市教委の説明板を読んでみよう。
池田忠雄の墓塔 岡山市指定重要文化財 昭和58年4月指定
忠雄は、兄忠継の跡を継ぎ岡山藩主となったが、寛永九年(1623)江戸にて逝去した。忠雄の墓所は正面七間、奥行五間の基壇を設け、四周を透垣でかこみ、正面に唐門が設けてある。その中央に忠雄の墓塔、右手に近臣加藤主膳正の墓、左手には奥方(芳春院)の供養塔が配置される。
寛永九年は1632年である。忠雄が亡くなったとき、岡山藩は大変なことになっていた。以前の記事「勝負の神様と仲間たち」で紹介した伊賀越え仇討事件の真っただ中だったのである。対立は外様大名対旗本の様相を呈していた。清盛が「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言い残したのと同じく、忠雄も「にくき又五郎の首を予が墓前に供えよ」と遺言したという。
話は脚色され、騒動を鎮めるために幕府が派遣した医師半井通仙院が忠雄に毒を盛った、という話も長く語り伝えられた。そこで移転に際して調査してみると、当時広く毒殺に使用された殺鼠剤「石見銀山ねこいらず」の砒素は検出されず、水銀が検出されたそうだ。ただし、これは遺骸を江戸から岡山に運ぶための防腐剤と考えられている。
平和な干拓地に眠る二人のお殿さま。藩主時代はいろいろあって心休まる間もなかっただろう。芋墓は寺の外からもよく見える。岡山平野は旭川と池田の殿さまのおかげと感謝し、ささやかながらこの一文を捧げたい。
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