ついに大河『鎌倉殿の13人』が終わってしまった。家康が『吾妻鏡』を読んでいるという冒頭からエンターテイメント満載のファイナルだった。戦いに敗れた後鳥羽上皇(尾上松也)は頭を丸め、その頭を文覚上人(市川猿之助)にかじられてから隠岐へと向かった。
この大河で名前は登場しても姿を見せなかったのが、後鳥羽上皇の皇子、頼仁親王である。何事もなければ四代目の鎌倉殿に納まるはずだった。親王の母は源実朝の御台所(千世:加藤小夏)と姉妹であり、上皇の側近藤原兼子(シルビア・グラブ)が養育したことから、鎌倉下向の件は朝幕双方から好意的に受け止められていた。話をつけに上洛した政子(小池栄子)が兼子と対面した際の緊張感も見所だった。
真庭市一色(いしき)に市指定史跡の「一色八幡古墳」がある。
有名な石舞台古墳のように墳丘が失われている。けっこう大きな石室だが、いったいどのような意義がある古墳なのだろうか。真庭市教育委員会『真庭市の文化財』を読んでみよう。
一色八幡神社の境内に位置しています。墳丘は流出し横穴式石室が露出しています。南南東に開口する無袖の横穴式石室で、羨道の一部が失われているものの保存状態は良好です。現状での石室規模は、長さ約9m、幅1.7mを測ります。備中川中流域では最大級の巨石墳で、東西交通の要衝を押さえていた有力な被葬者の性格がうかがわれます。築造時期は6世紀後葉~7世紀頃です。
確かに、近くを中国自動車道、国道313号が通過している。今がそうなら昔も交通の要衝であったのだろう。ここを押さえる有力者がいたのだ。話はここで終わらない。ここは一色八幡神社の境内、拝殿の前である。ふつう八幡宮の御祭神はホンダワケ、すなわち応神天皇だ。
ところが、この八幡神社の御祭神は「後鳥羽天皇若皇子」だと伝えられている。しかも横穴式石室が皇子の墓だというのだ。日本歴史地名大系34『岡山県の地名』(平凡社)真庭郡落合町「一色村」の項には、次のように記されている。
八幡宮がある。「作陽誌」によれば後鳥羽上皇の皇子が当地で没したため、家臣の若田将監・林兵庫が皇子の霊を祀ったのが始まりといい、江戸時代は当村の氏神で、妙法寺が社僧を務めた。皇子の墓と伝える塚が現存する。
若田と林は皇子の家臣のように記されているが、奉祀の年代は文禄二年(1593)だというから地侍であろう。それにしても、後鳥羽上皇とのゆかりは唐突に感じる。
それに、この皇子とは誰なのか。隠岐に流された上皇の子は承久の乱後、各地へ流されている。土御門天皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ、頼仁親王は備前児島へ、雅成親王は但馬へ。そのほか、出家した皇子も多い。美作の地で夭逝した皇子がいても不思議ではない。
上皇が通過した美作にはゆかりの地が多い。このブログでも「旅の途上で亡くなった寵妃」「みやこ人たれふみそめて」で出雲街道沿いの史跡を紹介した。しかし一色の地は備中へ向かうルートにあたる。そのまま西へ進めば備中から備後へと通じる。
以前に「後鳥羽上皇脱出事件」で備後北部に伝わる伝説地を紹介した。雲の上の貴人を往来の旅人が語り伝えるうちに、スピンオフ作品が制作されたのかもしれない。美作の地で没した若皇子もその一つなのだろうか。
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