「憂きことのなほこの上につもれかし限りある身の力ためさん」という古歌は、時に山中鹿介の作と誤り伝えられる。おそらく「願はくは我に七難八苦を与へたまへ」と混同されているのだろう。古歌の作者は熊沢蕃山が正しい。
偉大な陽明学者熊沢蕃山の名は、岡山県内に二か所、地名となって人々から敬慕されている。一つは岡山市北区蕃山町(ばんざんちょう)、ここに蕃山の屋敷があったことに由来する。同じ地内に蕃山の弟泉仲愛が開学に尽力した岡山藩藩学がこの地に設立され、その跡地は市立岡山中央中学校として、今なお人材育成に大きな役割を果たしている。
もう一つの蕃山、備前市蕃山(しげやま)に「熊沢蕃山陶像」がある。県重要無形文化財保持者、浦上善次の秀作だ。蕃山像が蕃山にあるのはなぜか。この史跡を見てもらいたい。
陶像から少し北に進むと「熊沢蕃山宅跡」がある。
蕃山先生がこの地に住んでいらしたのだ。碑は文政元年(1818)の建立で、「息游軒遺址碑」との篆額は岡山藩士で儒学者、興除新田の命名者でもある小原梅坡(おはらばいは)。息游軒は蕃山の別号である。また「八十九老井潜撰」とあるから、藩儒井上四明(いのうえしめい)八十九歳の撰文である。四明はこの翌年に亡くなる。さらに書は藩の記録編纂に尽力した美濃斎藤氏の末裔、斎藤一興である。偉大な先哲に対し藩を挙げて敬意を表していることが分かる。
「天地中正之気通則為事否則為言」から始まる碑文では、儒学と政治の密接な関係が説かれ、池田光政公と蕃山がともに藩政改革に邁進したことが記されている。この碑そのものも文化財級だが、指定を受けているのは宅跡という史跡である。説明板を読んでみよう。
備前市指定史跡 熊沢蕃山宅跡
昭和四十六年十月六日指定
熊沢蕃山は、元和五年~元禄四年(一六一九~一六九一)の人で、野尻一利を父とし、京都に生まれた。母方に養われて熊沢姓を名乗り、名は伯継(のりつぐ)、通称二郎八、後、助右衛門といった。江戸前期の儒者で、岡山藩の儒官であった。
十六歳で、京都所司代板倉重宗の推薦で、池田光政に仕え寵愛された。二十歳の時、光政が政治に用いようとしたが、辞退し、近江に隠退して四書を研究した。後、中江藤樹に陽明学を学んだ。二十七歳の時、光政に請われて備前に帰り、知行三千石で番頭になり、国事に参与した。明暦三年(一六五七)狩で負傷し、自ら禄を辞して、知行地の寺口村(現備前市蕃山)に隠棲した。そして、「新古今和歌集」源重之の「つくば山 葉山蕃山しげけれど 思い入るには さはらざりけり」と詠まれている歌が、寺口村の環境をよく表しており、自分の心境でもあるとして、寺口村を蕃山と改め、姓も蕃山とし、蕃山了介(りょうかい)といって、寛文元年(一六六一)に京都に行くまでここに隠棲していた。
平成七年十月 備前市教育委員会
岡山藩の中枢で活躍していた蕃山がこの地に隠棲したのは明暦三年(1657)。狩りでの負傷は表向きで、背景には藩内の守旧派との軋轢があったという。「蕃山」という号や地名は、新古今集の名歌に由来する。このリズミカルな歌は「恋に障害なんてないよ」という意味で、蕃山のストイックなイメージとのギャップが面白い。
新幹線を越えるとすぐに「山田方谷宅跡」がある。昭和28年の建立で、「方谷先生旧廬址」の書は正宗敦夫、作家白鳥の弟で歌人として知られている。説明板を読んでみよう。
備前市指定史跡 山田方谷宅跡
昭和四十六年十月六日指定
山田方谷(一八〇五-一八七七)は、備中松山藩の生んだすぐれた漢学者で、閑谷学校再開のため岡山の有志に招かれて、明治六年閑谷に来学した。当時生徒が二~三〇人であったが、翌年には一〇〇人になったといわれる。
岡本巍ら門弟が、熊沢蕃山宅跡に草廬を築いて方谷の遊息の場とした。
方谷は、春秋の二回、各一~二か月ほど来校するだけではあったが、この草廬をたいへん愛し、生徒も二〇人ぐらい寄宿していたといわれる。
備前市教育委員会
方谷もまた蕃山をリスペクトしていたのだろう。方谷さんを大河ドラマにしようという動きがあるが、実現すれば「方谷紀行」としてこの史跡が紹介されるかもしれない。来月3日から山陽新聞で澤田瞳子さんが方谷を描いた「孤城 春たり」と題した連載小説が始まるそうだ。蕃山にも言及があるだろうか。
蕃山は寛文元年(1661)に蕃山村を離れ京都に移住するが、この背景には養嗣子としていた八之丞(池田光政の三男、後の生坂藩主池田輝録)との関係悪化があるらしい。
方谷宅跡から少し北に進んで右手の佐古田山に入ると「熊沢蕃山両親の墓所」がある。
左が父の墓碑で「野尻藤兵衛諱一利号一丁之墓」と刻まれ、右の母の墓碑には「野尻藤兵衛一利妻熊澤氏之墓」とある。蕃山は母方の姓を継いだのである。母が御野郡南方村で亡くなったのは寛文十年(1670)、父が蕃山村で亡くなったのは延宝八年(1680)のことであった。
南側にある山の端、夫婦ヶ鼻に蕃山の妹の墓「紀正興妻埜尻氏之墓」がある。妹の万は岡山藩士の熊沢正興に嫁いでいたが、寛文八年(1668)に33歳の若さで亡くなった。正興は逸話集として有名な『武将感状記』を著した熊沢淡庵として知られている。秀吉が三成の出した三杯の茶に感心したという有名なエピソード「秀吉石田三成を召し出さるゝ事」も、この逸話集(巻之八)に収められている。
妹の墓の近くに弟の妻の墓「備陽銃卒将仲愛妻高橋氏之墓」がある。蕃山の弟泉仲愛も岡山藩に仕え、足軽頭を務めた。備陽は備前の雅称、銃卒将は足軽頭のことである。妻の実家は彦根藩に仕えた高橋氏であった。寛文四年(1664)にこの地で亡くなった。
泉忠愛は光政公から津田永忠と共に学校奉行に命じられ、寛文九年(1669)にめでたく岡山藩藩学が完成した。7月25日の開校式には当時播州明石にいた熊沢蕃山が招聘された。藩校としては日本最古だという。蕃山兄弟は岡山教育史の大恩人なのだ。
アメリカのワシントン、ベトナムのホーチミンなど、リスペクトを込めて人名を地名にする例がある。岡山市北区蕃山町や備前市蕃山もまた同じ。蕃山の事績は地名ととともに語り伝えられていくであろう。
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