星降る夜という素敵な表現がある。漆黒の宇宙に散りばめられた星々が空を満たしている光景が思い浮かぶ。本当に星が降ったという伝説もある。いちばん有名なのは山口県下松市で「下松発祥之地 七星降臨鼎之松」という石碑が建てられている。
本日は岡山県の降星伝説を追ってみよう。
岡山市北区真星(まなぼし)に「星神社」が鎮座する。
本殿を巨石が取り囲んでいる。ご神体なのだろう。参道入口の説明板には、次のように記されている。
星神社
御祭神
稜威雄走神(いづのおばしりのかみ)
甕速日神(みかはやひのかみ)
浮霊前角神(うきりょうぜんかくのかみ)
由緒
今より昔、千三百年前の天武天皇の時代、霜月十三日に此の御山に白日突如、黒雲かげり雷光を発し、山中鳴動すること三十五日間、恐れて近づく者なし、後、山頂に星のごとく輝く巨岩あり、里人あやしがりて陰陽師をして占いせしむるに曰く、天より三ツの星、三ツの磐座(いわくら)降りたり即ち、[稜威雄走神][甕速日神]地上に降臨したまう徴(しるし)なりと伝える。里人たち宮を建てて巨大な磐座を鎮め祀りこの里を真星(まなぼし)と称し、宮を『星神の宮』と崇めた。
後の世、岡山城築城にあたり、宇喜多秀家、遥か北の守護神として崇拝し、当神山より御神木を乞い岡山城の真柱として堅固長久(けんごちょうきゅう)の柱神(はしらがみ)としたことは、知る者もすくない。また、足守藩の崇拝厚く神社正面鳥居扁額は九代藩主木下利徽(きのしたとしよし)の奉納であるが木下とは記さず豊臣の姓をもって奉納したるも珍しいことである。
天武天皇の時代に星が三つ降って来たのだという。『日本書紀』で確かめてみると、次の記述があることが分かった。
天武十一年(682)八月三日条
甲子、高麗の客に筑紫に饗(あ)へたまふ。是の夕の昏時(いぬのとき)に、大星(ゆうづく)、東より西に度(わた)る。天武十三年(684)十一月二十一日条(※ユリウス暦では685.1.1)
戊辰、昏時(いぬのとき)に、七の星倶に東北に流れて、則ち隕(お)ちぬ。
霜月と十一月、三と七(複数個の流星)から内容的に近いのは後者だろう。この時の隕石をご神体としているのだろうか。ちなみに、下松市に星が降ったのは推古天皇三年(595)だからもっと古い。
また、岡山城の「真柱」はこの山、星神山のご神木だったという。岡山開府四百年記念『岡山城史』で確かめてみよう。
姫路城や松江城、また備中松山城などの天守閣には、塔建築に用いるような中心柱を二本たてて、縦の結合を図っているが、岡山の天守閣にはこうした長大な通し柱は用いてなかった。
岡山城は通し柱、すなわち心柱を立てておらず、柱をつなぐ太い虹梁が建物を支えていた。ならば、説明文中の「真柱」は何を指しているのだろうか。
説明文が最後に紹介する鳥居扁額がこれだ。
確かに豊臣利徽とある。この足守藩九代目の木下利徽は寛政末に若くして藩主となり、文化初に隠居して嘉永年間まで長生きした。木下の名字は、秀吉の父が名乗っていたとも、正室おねの実家に由来するともいう。
はじめ木下を名乗っていた秀吉は、天正三年(1575)に羽柴を名乗り、天正十四年(1586)に朝廷から豊臣朝臣の姓を授けられた。秀吉は諸大名に豊臣の名乗りを乱発したが、徳川の世が確立すると誰も名乗らなくなる。
それでも家康の実力を認めた北政所の実家、木下氏だけは豊臣姓を名乗り続けた。こうして「豊臣」の文字を見ると、豊臣氏は滅んでなんかいないことが分かる。単純な理解ではつかみきれない歴史の奥深さが感じられる。
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