敦賀市公認キャラクターは「ツヌガ君」、「よっしー」、「バショさん」の三人である。このうち「ツヌガ君」は「「敦賀」発祥の王子さま」でキャラ進化以前の姿を紹介した。「バショさん」は一昨年、氣比神宮境内地のほぼ全域が名勝「おくのほそ道の風景地」に追加指定されたことから、喜んでいるようだ。
本日の主人公「よっしー」も一昨年、たいへん注目を集めた。よっしーこと大谷吉継公を大河「真田丸」で演じたのが、片岡愛之助だったからである。この年、愛之助は敦賀を訪れ、吉継公の供養塔に参拝するとともに、トークショーで「忠義の心と大きな愛のある人。理想の人物です」と魅力を語ったという。
敦賀市栄新町の永賞寺境内に「敦賀城主大谷刑部吉継公の供養塔」がある。市指定文化財(建造物)としては「永賞寺九重塔」という。
大谷吉継は愛之助が語るように、友情に厚い「義」の人であるとともに、敦賀市民にとっては城下町の整備拡充を図った偉人である。敦賀は戦国時代、一乗谷を本拠とする朝倉氏の支配下に置かれ、江戸時代には物流の拠点として繁栄したが、若狭小浜藩領の一部として明治に至った。つまり、敦賀ゆかりの武将として顕彰するには、吉継公がもっとも適しているのである。公の事績を永賞寺の説明板で読んでみよう。
永禄二年(一五五九)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川(どうのかわ)家を開基として再興、武山栄文(ぶさんえいもん)禅師を招いて、曹洞宗永賞寺とし、菩提寺として優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦にて敗れ、四十二才で切腹し、この塔は慰霊のため九年後(一六〇九)に建てられたと伝えられる。
吉継公が敦賀城主となったのは天正十七年(1589)、慶長五年(1660)の関ケ原の戦いで自害するから12年間ほどの殿様だったわけだ。敦賀城築城以前は金ヶ崎城が守備の拠点だったが、天正十一年(1583)に敦賀を与えられた蜂屋頼隆(はちやよりたか)によって近世的な城が築かれた。この敦賀城はどこにあったのだろうか。
敦賀市結城町の市立敦賀西小学校前に「敦賀城の跡」「敦賀町奉行所・代官所の跡」「敦賀県庁の跡」を示す石碑がある。
このあたりの平地は、まったく普通の都市のたたずまいをしており、城跡をイメージさせるものはない。どのような城だったのか。石碑の関係部分を読んでみよう。
天正十一(一五八三)年、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は、現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は、敗れて自刃した。 元和元(一六一五)年の一国一城令によって、城は破却された。
こうして城下町敦賀は短期間に終わってしまうのだが、碑文の続きを読むと、城跡には小浜藩の奉行所や代官所が、廃藩置県後の第一次府県統合では敦賀県の県庁が置かれたことが分かる。敦賀県は明治四年(1871)11月から同九年(1876)8月にかけて存在した。吉継公の城跡は形を変えながらも、地方政治を推進する機能を長く担っていた。
その後、敦賀県は滋賀県と石川県に分割され、今の福井県が誕生するのは明治14年(1881)のことである。石碑では「県庁が敦賀に戻ることはなかった」と残念がっている。敦賀の人々にとって、今は幻の敦賀城は、地域繁栄の象徴なのだろう。どこかに遺構はないのだろうか。
敦賀市松島町2丁目の来迎寺の山門は「敦賀城中門」の移築だと伝えられている。往時の城を偲ぶ貴重な手がかりである。この門をくぐれば、三層の天守閣はもうすぐだったことだろう。
敦賀城主、大谷吉継公。天下分け目の関ヶ原で小早川秀秋のまさかの寝返りにより、自害に追い込まれた。吉継は、前線から戻った家来の湯浅五助と、次のようなやり取りをしたという。ちなみに吉隆は吉継のことである。『関原軍記大成』巻之二十六「大谷吉隆自害附戸田・平塚戦死」より
大谷乗輿の外に出て「合戦の勝敗如何に」と問ふ。
五助泪を流し「裏切りの輩あるにより、味方忽ち利を失ひ、戸田武蔵守殿・平塚因幡守殿討たれ給ひ、軍士等数十人戦死仕候ひぬ。大学殿・山城守殿は生残りたる兵士を下知して、未だ御防戦と見え申す。駐進申さん為め、暫く一命を存命(ながら)へて馳参りたり」といひければ、
吉隆「扨(さて)は心得たり、時刻移らば雑人等が手に懸らん事計り難し、急ぎ切腹すべし」とて、掛硯より金子を出させ、
近習の兵士に向つて「味方敗軍の今に至る迄、附纏ひたる志、誠に武士の勇義なり。去りながら、一陣挙つて討死せんも更に益なき事なれば、面々は此金子を路料として、何方へも離散すべし」といひ含め、
其後五助が方に向ひ「汝介錯して、我首を敵方へ渡すべからず」といひて、
押肌脱ぎ、腹十文字に掻切りければ、五助首打落す。行年四十二歳とかや。
こうして部下を思いやりながら壮絶な最期を遂げたのであるが、「裏切りの輩」が小早川秀秋だっただけに、話を盛って伝えた本もあったようだ。同じく『関原軍記大成』を読んでみよう。
俗本に、大谷吉隆自害の時、秀秋の陣に向ひ、人面獣心なり。三年の間に祟りをなさんといひて腹切りしが、果して大谷が死霊秀秋の眼に遮り、是より先に秀秋、杉原下野といふ忠臣を村山越中に仰せて討たせしが、彼の下野が死霊出づるに依つて、村山越中に其奇怪を見せらる。越中刀の柄に手を懸け怒を顕せば、霊鬼猶怒る。去に依つて大谷が祟をなす時も、又村山越中罷出でゝ、始めの如く怒れども、大谷更に恐れず、弥々奇異を顕しけるが、三年に当る七月十五日秀秋狂乱して、刀を抜きあたりを切払ふ様にせられしが、此日忽ち卒去せらる。大谷自殺の時、三年は過ごさじといひて死たりしが、月は替れども日は替らじ、尤も怖るべしと記す。今按ずるに、秀秋は、血の流るゝ病に依つて、慶長七年十月十八日卒去なれば、七月十五日に狂乱して死去せられたりとあるは覚束なし。
確かに関ケ原の戦いは慶長五年(1600)9月15日であり、小早川秀秋が亡くなったのは慶長七年(1602)で吉継公の三回忌の年である。本当に日付が7月15日なら「月は替れども日は替らじ」だが、実際は10月18日である。
『関原軍記大成』の指摘するとおり、話の内容は実に疑わしい。そもそも吉継公ともあろうお方が、「人のツラして心はケダモノの秀秋め。三年のうちに祟ってやる」などと恨みがましいことを言い残すとは思えない。吉継公の生きざまを尊敬する人は今も多い。みなとつるが山車会館には「吉継さまへの恋文ノート」が置かれているそうだ。