手塚治虫『火の鳥』ヤマト編で、殉死の禁止と埴輪の起源にまつわるエピソードが、切なく感動的に描かれていたことを覚えている。このエピソードの元ネタは『日本書紀』にある。
垂仁天皇28年11月2日条
今より以後、殉(しぬるにしたが)はしむることを止めよ
同32年7月6日条
今より以後、是の土者(はにもの)を以て生きたる人に更易(か)へて陵墓に樹て、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ
このことから殉死は古くからあったことが分かるが、この時の禁令が後の世まで守られたわけではない。近くは明治大帝に殉じた乃木将軍に至るまで、殉死をめぐっては、忠義と人道のはざまで、さまざまに議論されてきた。本日は、ある戦国武将の考えを紹介しよう。
JR宇野線の常山駅の向こうに「常山」が見える。山頂には城跡があり「戦国時代の国防女子」で、この城をめぐる毛利勢と織田勢の争い(常山合戦)を紹介した。駅からまっすぐ常山に向かって進むと、このような立派なお堂がある。
玉野市宇藤木に市指定文化財の「友林堂」がある。
この中に安置されている位牌の主が、本日の主人公である。玉野市教育委員会による説明板の一文を読んでみよう。
この友林堂は、常山城主戸川友林(秀安 慶長二年一五九七年没)の位牌を安置する霊廟であり、文化二年(一八〇五年)、撫川・早島・帯江・妹尾知行の戸川四氏によって建立されたものである。
戸川四家のうち、妹尾家については「1500石のご領主さま」、帯江家については「三百年後も慕われる政治家に」で紹介した。大名ではないが一族として江戸時代を通じて栄えた戸川氏は、四家共同で祖先ゆかりの常山城の麓に霊廟を建立した。「唐破風入母屋造り妻入りの拝殿」は重厚な構えだ。注目したいのは掲げられている額である。
「啓宇」の文字は、寛政異学の禁で知られる幕府儒官・柴野栗山の書である。戸川家の開祖という意味合いがあるのだろう。戸川秀安は、宇喜多直家譜代の家臣であり、備前一国制覇に多大な貢献をした。天正十一年の中国国分け後に常山城主となる。
エピソードを一つ紹介しよう。直家は死を前にして家臣らに殉死するかどうかを尋ねた。多くの者は「あの世までも、お供いたします」と答えたが、秀安だけは次のように答えたという。『武将感状記』巻之七「戸川肥後守秀安殉死を止むる事」より
人には各能あり不能あり。臣若輩ながら戦に臨み、堅(かたき)を破り鋭きを挫(くぢ)き候事は、常に此の坐中(ざちう)の者に劣り申さず候。是臣が能なり。殉死に於ては中々成り難く候。是臣が不能なり。君もし殉死の者を求め給はゞ、之を思ふに日頃御帰依の法華宗の僧に如(しか)じ。冥途は誠に此の界(よ)に異り、僧引導するも猶成仏を遂ぐと云へり。況(いはん)や殉死して直(ぢき)に君を導き候はゞ、必ず天堂(てんだう)に至らせたまふべし。臣等は武士也。多くは修羅道に赴き候べし。僧に如(しか)ざること其の理(ことわり)分明(ぶんみやう)に候。まして僧は首(かうべ)を喪(うしな)ふの危(あやふき)にも遭はずして、君の尊敬(そんきやう)寵賜(ちようし)臣等に十倍す。臣等矢石(しせき)の難を冒(をか)し、万死の中に一生を得たれども却つて僧に逮(およ)ばず。君の恩遇の渥(あつ)きを以て殉死を致さば、僧最も第一なるべし。
人にはできることとできないことがございます。私は若輩ではございますが、戦場で強敵を倒したことは、この場におられる方々に劣るとは思いません。これが私のできることです。殉死はなかなか大変な事であり、私にはできそうにございません。もしお屋形さまが殉死する者を求めておられるのなら、日頃から信仰していらっしゃる法華宗の僧侶がよろしいでしょう。この世とは異なるあの世では、この世の僧侶が引導を渡しても成仏すると言いますので、ましてや、僧侶が殉死して直接お屋形さまを導いたなら、必ずや極楽に行けることでしょう。我らは殺生をする武士にございます。多くの者は争いの絶えない修羅道に落ちるでしょう。僧侶が適していることは明らかに理にかなっております。さらに僧侶は武士に比べて首もとられる危険性もなく、お屋形さまから敬われ大切に扱われる程度は私たちの十倍にもなるでしょう。我らは戦いで危険な目に遭い、九死に一生を得ながらお屋形さまをお守りしていますが、とても僧侶には及びません。お屋形さまの恩寵篤き方が殉死なさるのであれば、僧侶が第一と心得ます。
なかなか理路整然とした応答だ。直家は「お前の言うことはもっともだ。殉死せずともよい」と納得したという。この気骨ある秀安の墓は、友林堂から少し上がった見晴らしのよい場所にある。
「戸川友林及び日賢・日教の墓」は玉野市指定の史跡である。日賢・日教は秀安の重臣だとも、日賢は秀安を信仰に導いた師だともいう。秀安は直家の死後隠居し、子の逵安(みちやす)に家督を譲った。亡くなったのは慶長二年(1597)9月6日である。主君直家の子・秀家も秀安の子・逵安も立派になっていたが、関ケ原の戦い直前に御家騒動が勃発、逵安は宇喜多家を辞して徳川家康の家臣となる。
この判断が適切だったことは歴史が証明するとおり。あの関ケ原を生き延びたのである。戸川四家がご先祖様を顕彰しようとする気持ちがよく分かる。友林堂のある宇藤木地区は江戸時代、戸川氏領ではなく岡山藩領だった。それでも秀安の墓と位牌が常山の麓で祀られてきたのは、戸川氏と宇藤木地区の人々の深い絆があったからに他ならない。
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