江戸時代は家格で役職が決まっていたから、優秀な人材を得られなかったのだろう。そう思っていたが、どうやら間違っていたようだ。現代の官僚のような熾烈な出世争いがあり、本人の才覚と運とで、けっこう上まで行く人がいた。
戸川逵和(とがわみちとも)もその一人である。江戸時代中期の旗本で、日光奉行、大目付などを歴任し、寛政三年(1791)に書院番頭(しょいんばんがしら)となっている。将軍の御側近くに仕える、かなり高位の役職である。
知行地は備中妹尾1500石である。金比羅往来沿いの陣屋町として栄えた。本日はこの町のご領主さま、戸川氏の話である。
岡山市南区妹尾の啓運山盛隆寺に「戸川公墓地」がある。
塀に囲まれて、大きな墓がずらりと並んでいる。どれがどなたの墓碑なのかは私には分からない。そもそも、戸川氏とはどのような一族なのか。
初代の戸川秀安は、備前の戦国大名、宇喜多直家配下の有力武将として活躍した。二代逵安(みちやす)は慶長四年(1599)の宇喜多騒動で主家を離れ、翌年の関ヶ原の戦いでは東軍につく。戦後、備中庭瀬藩主となる。
二代藩主正安の時、弟二人に早島と帯江を分知する。三代藩主安宣(やすのぶ)が寛文九年(1669)に相続した時には、安宣の弟安成(やすなり)に妹尾を分知した。これが妹尾知行所の始まりである。以後、安成-正方-逵和-逵旨(みちよし)-逵あつ(言+乃)-逵本(みちもと)-逵穀-逵利(みちとし)と続いた。冒頭で紹介した逵和は3代目である。
妹尾知行所の陣屋の遺構として有名なのは、笠岡市立笠岡小学校にある小田県庁正門である。存在感抜群の立派な門だ。廃藩置県により県庁が置かれた時に、ふさわしい門として移築されたらしい。
そして、妹尾の地には、下の井戸が残るのみである。
岡山市北区妹尾に市指定重要有形民俗文化財の「戸川陣屋井戸」がある。
覆屋は安政四年(1857)の築である。妹尾は昔から飲料水の確保には苦労があり、陣屋が廃止された後も土地の人々が利用していた。今も写真のように美しく保存されている。
戸川氏のゆかりを求めて、もう少し旅を続けよう。上の井戸の背後の山に、領主に崇敬されていた陣屋の鎮守がある。
今やすっかり荒れてしまい、これからどうなるのか心配だ。それでも、額束には「稲荷大明神」とあり、その上部に戸川氏の「三本杉」紋を見ることができる。柱には「慶應貮丙寅年九月吉祥日」とあり、慶応2年(1866)の建立だと分かる。
右隣の末社、清輝天王の社前に「石造唐獅子」がある。左側には「慶應元乙丑年五月吉日」とあり、右側には「戸川逵穀」と第7代の領主の名を刻む。こちらは慶応元年(1865)である。
明治維新直前に整備が進んだようだ。各地で不穏な動きが発生する中、民心を安定させようとしたご領主さまの心遣いが感じられる。数年後に幕府が倒れようとは思いもしなかっただろう。稲荷大明神が再び地域のシンボルとして復興することを願うばかりである。
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