何コレと思わせるタイトルにして、気を引こうとする魂胆である。読んでくださってありがとうございます。「た伊賀ーくん」というご当地キャラがいるらしい。変換ミスなのか。何と読むのか。どんな姿をしているのか。
検索すると、トラが鎧を着て兜の代わりに城をのっけているではないか。ああ「タイガーくん」なわけね。漢字の後に長音符はこねえだろ。そんなゆるさも、ご当地キャラの魅力だ。
「伊賀」そして「虎」なのである。戦国好きの方はもうお気付きだろう。伊賀・伊勢その他合わせて32万石3千石の太守となった藤堂高虎である。「た伊賀ーくん」とは、高虎をイメージした、伊賀上野城のキャラクターだったのだ。
養父(やぶ)市大屋町加保(おおやちょうかぼ)のあゆ公園に「藤堂高虎公ゆかりの郷」と刻まれた標石柱がある。平成23年2月に建立された。
藤堂高虎の生まれは近江で、本拠とした城は猿岡城(紀伊粉河)、板島丸串城(伊予宇和島)、国分山城(伊予今治)、津城(伊勢)である。ここ但馬とは、どのような「ゆかり」があるというのだろうか。
高虎が粉河寺の僧兵勢力を牽制するために、猿岡城に入城したのは天正十三年(1585)である。話はそれよりもまだ前のことだ。
天正五年(1577)に第一次但馬征伐が行われた。当時、高虎は羽柴秀吉の弟秀長に仕えていた。続きは説明板で読んでみよう。
藤堂高虎(与右衛門)は羽柴秀吉に仕え、第一次但馬征伐では羽柴秀長に従って出陣し、手勢を率いて七味郡小代谷に攻め入り、緒戦は有利に戦ったが毛利方の小代一揆勢の猛反撃にあって敗走し、天滝を越えて大屋谷の栃尾加賀守祐善と源左衛門親子に匿われた。小代谷の小代大膳らが天滝を越えて攻め込み、横行に砦を構えて栃尾勢と攻防がくりかえされ激戦の末、蔵垣野の決戦で小代勢は全滅した。この戦功によって、秀吉より三千石を加増され、高虎の出世する糸口となったといわれる。高虎はしばらく加保村栃尾館に滞留し、この間に祐善の媒酌により、美含郡中野村の豪族一色修理太夫の息女・久芳夫人を娶った。高虎にとって大屋郷は、戦功をあげて出世の糸口となり、新婚の土地となったと伝わっている。
まず、地名の位置を確認しておこう。小代(おじろ)谷は現在の香美町小代区、大屋(おおや)谷は養父市大屋町加保、横行(よこいき)は養父市大屋町横行、蔵垣(くらがき)野は養父市大屋町蔵垣である。このあたりが当時、織田勢と毛利勢の最前線だったのだ。要するに、ハチ高原をはさんで戦っている。
はじめ小代谷に攻撃を仕掛けたのは高虎だ。ところが小代一揆勢の猛反撃にあって、大屋谷の栃尾氏にかくまってもらうことに。さらに小代勢に攻め込まれるものの、激戦の末に高虎が勝利をつかみとる。
さらに喜ばしいのは、高虎が栃尾氏に嫁さんを世話してもらったことだ。足利氏の支流一色氏の娘で、美含郡中野村、現在の香美町香住区中野の出身である。後の久芳院で、高虎と労苦をともにし、元和二年(1616)に津城で亡くなった。
出世の糸口をつかみ、生涯の伴侶を得ることができた。但馬は高虎にとって忘れ得ぬ土地であったに違いない。「ゆかりの郷」の意味がやっと分かった。大大名となる藤堂高虎の原点がこの地にあったのだ。
旧大屋町が小学生向けに作成した副読本『大屋の歴史』には、もっとドラマティックなシーンが描かれている。原典は出石藩出身の桜井勉『校補但馬考』である。
この戦いの最中、一揆の者が高虎の馬に切りつけたため、高虎は馬から落ちて溝にはまりました。一揆勢はそこへ集まってきて高虎を討とうとしました。源左衛門がこれを見つけて敵を追い払い、自分の馬に乗せて危ないところを救いました。
おっと、これは危なかった。どんな戦闘シーンでも、一度はヒーローが危機に瀕するものだ。だから、次の展開が面白くなる。高虎を救った源左衛門は先述の栃尾氏である。高虎が出世し、今「た伊賀ーくん」が人気なのも、大屋谷の人々のおかげと言っても過言ではない。
さて、「た伊賀ーくん」のグッズ第1弾として、ハンドタオルが作製されたそうだ。今や日本を代表するブランド、今治タオルである。なぜ今治なのか。高虎は今治の領主として今治城を築城するなど、ゆかりは深い。グッズが第2弾、第3弾と増えるなら、ぜひとも但馬ゆかりのグッズもお願いしたい。
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