学問の神様リストに、また一人追加したい。太宰府天満宮の菅原道真、橘神社の橘逸勢、契沖神社の僧契沖、東湖神社の藤田東湖、阿部神社の阿部正弘に続くのは、栗山記念館の柴野栗山(しばのりつざん)先生である。
先日、文部科学省の教員勤務実態調査で、小中学校教員の深刻な時間外労働が明らかになった。学力向上対策などで多忙化に拍車が掛かっているという。ならば学力の向上は、学問の神様にお願いし、お任せしてはどうだろうか。
高松市牟礼町牟礼に「栗山先生宅址」の碑がある。
碑のそばに栗山記念館があり、受験のお守りが売られている。私も一つ求めたが、その効能は次のとおり説明されている。
自らの努力の積み重ねで学問界のトップになった栗山。「学神」とまでいわれる栗山。その栗山の遺徳を持って受験に臨めば、目標達成間違いなしと評判です。
身分制度下の江戸時代において、栗山は農家に生まれながら幕臣に取り立てられ、老中松平定信に重用されたという。努力の積み重ねがあればこそのサクセス・ストーリーである。
後ろを振り向けば五剣山を背景に、栗山の記念碑がある。真ん中の巨石に刻まれているのは、栗山の漢詩「神武陵」である。
遺陵(いりょう)纔(わず)かに路人に問ひて求む
半死の孤松(こしょう)、半畝(はんぽ)の丘
聖神、帝統を開くこと有らずんば
誰か品庶(ひんしょ)をして夷流を脱せ教(し)めん
厩王(きゅうおう)の像、設(もう)くは金閣を専らにし
藤相(とうしょう)の墳塋(ふんえい)は玉楼(ぎょくろう)を層(かさ)ぬ
百代の本枝、麗(かず)億のみならず
誰か能く此処にて一たび頭(こうべ)を回(めぐ)らさん
人に聞きながら、やっとのことで神武天皇陵にやってきたが、枯れかけた松のある丘があるだけではないか。神武天皇が我が国を興さなければ、今の幸福な生活もなかっただろうに。聖徳太子には法隆寺があり、藤原鎌足には談山(たんざん)神社がある。我が国の民は今や数えきれないほどだが、天皇陵を拝む者はどれほどいるのだろうか。
勤王精神あふれる栗山の傑作である。しかし、この時栗山が訪れたのは、第二代の綏靖(すいぜい)天皇陵であった。間違えたのではない。当時はそう思われていたのであって、天皇陵の場所が確定するのは、幕末から明治にかけてのことである。
栗山は勤皇家だが国学者ではない。儒学者である。朱子学者と呼んでもいい。日本史で必ず学習する「寛政異学の禁」は、栗山の建言により実現したものである。史料集には、寛政二年(1788)5月24日に出された林大学頭への通達が、よく掲載されている。これに栗山の名前が登場するのだ。『憲法類集』より
朱学の儀は、慶長以来御代々御信用の御事にて、已ニ其方家代々右学風維持の事仰せ付け置かれ候儀二候得共、油断無く正学励み、門人共取立申すべき筈ニ候。 然る処、近来世上種々新規の説を為し、異学流行、風俗を破り候類ひ之有り、全く正学衰微の故ニ候哉、甚だ相済まざる事ニて候。其の方門人共の内、右体の学術純正ならざるも、折節は之有る様ニも相聞え、如何ニ候。此の度聖堂御取締厳重に仰せ付けられ柴野彦助、岡田清助儀も右御用仰せ付けられ候事二候得ば、能々この旨申し談じ、急度門人共異学相禁じ、猶又自門に限らず他門ニ申合せ、正学講窮致し、人才取立候様相心掛け申すべく候事。
朱子学は慶長の昔から幕府公認の学問であり、林家にはその学風を維持し門人を育てるよう命じているところである。しかしながら、近年はさまざまな新説が唱えられるなど、異端の学問が流行し文化が乱れている。正統な学問が衰えてきたからではないか。このままではいけない。林家の門人にも正当な学問をしていない者がたまにいるようだが、いかがなものか。このたび、湯島の学問所の指導内容を厳重に審査し、柴野栗山と岡田寒泉を教授として採用した。このことを周知し、必ず門人に異端の学問を禁じるとともに、他派の協力も得て正統な学問たる朱子学を講義・研究し、人材を育てるようにせよ。
事実この頃、朱子学は他派に押されて沈滞していた。正学たる朱子学の衰えは、すなわち幕府の権威の衰えにつながる。少なくとも幕府に最も近い学問所では、朱子学のみを講じるべきである。栗山は、そう考えたのだ。全国に強制した思想統制ではなかったが、諸藩は幕府の意向を忖度して藩校の教授内容を改めたので、朱子学は全国的に復興していく。
今日の「学問の自由」を指標にすれば、「寛政異学の禁」は社会の発展を阻害する悪政のように思える。しかし実際には寛政年間こそ、東京大学の源流となる昌平黌が整備されるなど、高等教育の興隆期であった。その優れた教授陣、柴野栗山(ひこすけ)、尾藤二洲(りょうすけ)、古賀精里(やすけ)は寛政の三博士、あるいは寛政の三助と呼ばれている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。