白紙(894)に戻す遣唐使、菅原道真は遣唐大使に補任されるや、遣唐使の停止を建議した。ところが、宋代になって、道真が無準師範(ぶじゅんしばん=仏鑑禅師(ぶっかんぜんじ)=臨済宗の高僧)のもとを訪れ、一夜にして悟りを開いたという伝説がある。「渡唐天神」である。行かないよう進言したはずの中国に密かに行っているとは、天神さまもお人が悪い。
太宰府市宰府四丁目の太宰府天満宮の拝殿前に「飛梅」がある。
道真公といえば「梅」である。渡唐天神像も梅の枝を手にしている。太宰府参りの名物は梅ヶ枝餅である。そして、道真公といえば、延寿王院前の歌碑に刻まれたこの歌である。
東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
ここでは「春な忘れそ」だが、「春を忘るな」という表現もよく見かける。むかし、古文の時間に「な~そ」は禁止を表すと習ったことから、「春な忘れそ」が技巧的な表現で、「春を忘るな」は直截な表現、現代的な表現に感じていた。
この歌の初出は『拾遺和歌集』巻第十六「雑春」である。
なかされ侍りけるとき家の梅花を見て 贈太政大臣
こちふかはにほひおこせよ梅の花あるしなしとてはるをわするな
延喜三年(903)に亡くなった道真公は、正暦四年(993)に太政大臣を追贈される。『拾遺和歌集』は寛弘三年(1006)頃の成立である。
白川院政期に成立したと推測されている歴史物語『大鏡』巻之二「左大臣時平」にも、この歌は登場する。
このおとゞ、子どもあまたおはせしに、女君たちは婿(むこ)どり、をとこ君たちは、みなほど/\に、位どもおはせしを、それもみな、方々に流され給ひて、かなしきに、幼なくおはしける君、女君たち、慕(した)ひなきておはしければ、ちひさきはあへなむと、おほやけもゆるさしめ給ひしぞかし。みかどの御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを、おなじかたにつかはさゞりけり。かた/"\に、いとかなしくおぼしめして、御まへの梅の花を御覧じて、
こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
道真公は子だくさんで、娘たちは婿をもらい、息子たちはそれなりの官位についていたが、みなあちこちに流されてしまい、悲しいことであった。ただ、幼い子どもたちはお父さんを慕って泣いていたので、「小さい子はいいだろう」と天皇もお許しになったのだ。とにかく天皇のなさった処置はきわめて厳しく、息子たちを父と同じ方面に流すことはなかった。道真公はあれやこれやと大変悲しく思われて、庭先の梅の花を御覧になり歌を詠まれた。
梅の花私はいないが忘れずに春になったら咲き匂うんだよ
人事の無常と変わらぬ自然を見事に表現した名歌である。ここでもやはり「春を忘るな」という表現だ。おそらく、時代を経て引用されるうちに「春な忘れそ」の表現が派生したのだろう。
当然ながらこの歌は、京にある道真の屋敷「紅梅殿」で詠んだ歌である。歌碑はその歌が詠まれた地に建つのがふさわしいと考えるなら、紅梅殿の跡とされる北菅大臣(きたかんだいじん)神社(京都市下京区仏光寺通新町西入北側菅大臣町)が相応しいだろう。
それでも、この地に「東風吹かば」の歌碑があるのは、屋敷の梅、つまり『大鏡』の言う「御前の梅」が一夜にして飛んできたからだ。だから「飛梅」という。
古い伝えのある梅の木だが、拝殿前の梅の木はそれほどの古樹には見えない。調べてみると、このような記述を見つけた。
太宰府天満宮の神殿に向かって右正面に「飛梅」がある。樹齢約百年、十一、二代めの木であろう、という。
(中略)
「飛梅」は、その道真が出京の日に詠んだ和歌に感じて、「御前の梅」が都から一夜にして飛んで来たもの、という。一説には、かねて恩顧を受けていた伊勢渡合(わたらい)の社人白太夫(はくだいう)なる者、道真の後を慕って大宰府に下るとき、都の道真邸に立ち寄り、奥方の音信と庭前の遺愛の梅を根分けしたものとをひそかに携えて道真の謫所(たくしょ)にもたらした。道真は都から取り寄せたことをはばかり、一夜のうちに都から飛んで来た、と披露した、という。( 日本発見16『ふるさとの伝説 伝承と昔がたりのルーツを訪ねて』 暁教育図書、昭和55)
確かに、梅が一夜にして飛んで来たというのも渡唐天神と同じく、信仰から一歩離れて考えると現実離れしている。白太夫については、土佐に流された嫡男高視公ゆかりの神社で説明しているので御覧いただきたい。
白太夫運搬説はさもありなん、説得力を感じる。人が運んだ梅の木を一夜で飛んできたと吹聴するとは、道真公もなかなかの策士であることよ。
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