近くの国の高官が粛清されたとのニュースは酸鼻をきわめた内容で、この21世紀に、と耳を疑うような報道もあった。その一つが、一族が次から次へと処刑されたことである。近代法治国家において、選挙違反でもないのに一族に連座が適用されるなんぞ聞いたことがない。
権力闘争だから何でもありだと冷徹な見方もできよう。事実、一族皆殺しは、中国や朝鮮、いや我が国の歴史を繙けば少なからず見てとれる。あの豊臣秀吉だってそうだ。甥の関白秀次一族を容赦なく粛清したではないか。秀次の嫡男、仙千代丸は6歳で処刑されている。
もう少し穏やかな話をしよう。家族まで連座した左遷人事である。
高知市北高見町に「菅原高視(すがわらのたかみ)朝臣邸跡」がある。「菅原高視朝臣遺跡」と刻まれた石碑は、大正14年3月に建てられたものだ。
ここから少し山を登ったところに「菅原高視朝臣墓所」もある。
菅原高視朝臣は、かの道真公のご長男である。道真公ゆかりの地ならば天満宮があるはず、と近辺を探すと、山をはさんで北側の天神町に「潮江(うしおえ)天満宮」がある。
この天満宮の楼門は重厚な造りで高知市指定文化財となっている。特に正面上部に鳳凰が羽ばたいているところに迫力がある。
祭神は菅原道真公、高視朝臣、北御方ということだ。なぜこの地に菅公父子が祀られることとなったのか。やはり時は昌泰の変に遡る。昌泰4年(901)年1月のことである。道真公(宇多法皇派)は藤原時平(醍醐天皇派)との政争に敗れ、大宰権帥に左遷されることとなった。続きは天満宮の由緒書を読んでみよう。
同時に嫡子右少弁高視朝臣もまた土佐権守(ごんのかみ)として京都を逐われ土佐国潮江に住居した。高見山の麓に邸跡があり、古来小判畑と称して口碑に伝えられていたが、今日では記念碑ができて千余年の昔をしのばせている。
公が大宰府で延喜三年(903)二月二十五日に薨ぜられると侍臣松本白太夫は遺品として、袍、剣、及び観音像を護持してこれを朝臣に伝えるため、はるばると土佐に来国した。
(中略)
高視朝臣は、白太夫の歿後公の遺品を収め、これを霊璽として祀ったのが潮江天満宮の由来で朝臣は延喜六年赦に逢うて右少弁に復し同十三年、三十八才で卒去したとあるが口碑伝説では、この地にて逝去されたとある。
右少弁とは太政官右弁官局の第三等官ということだが、もう一つイメージがつかめない。それよりも、右少弁に兼ねて大学頭に任官していたと紹介するほうが、菅家の御曹司に相応しかろう。
道真公は大宰府へ、長男の高視公は土佐へ、そのほかの子供たちはどうなったのか。二男の景行(かげつら)公は駿河へ(ゆかりの地は静岡天満宮摂社景行社)、三男の兼茂(かねもち)公は飛騨へ(ゆかりの地は飛騨天満宮)、四(五)男の淳茂(あつしげ)公は播磨へ(ゆかりの地は曽根天満宮)と左遷となったのである。
さて、道真公が大宰府で亡くなり、遺品を松本白太夫という家臣が土佐の高視公のもとへ届けたという。天満宮の境内には、この家臣を祀った白太夫(しらたゆう)社もある。
説明板によると白太夫は、松本春彦または渡會(わたらい)春彦というそうだ。後者の場合は、道真公の最期を看取った伊勢の神官との設定で語られる。伊勢信仰の布教師(御師や伊勢比丘尼)が語り伝えた伝説である。
様々に派生した物語のうち、最も有名な白太夫は、浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』に登場する道真公の老僕で、松王丸、梅王丸、桜丸の三つ子の父親である。うち松王丸は我が子を犠牲にしてまで、菅丞相の一人息子、菅秀才の命を助けるのだ。
菅丞相は道真公のことだが、菅秀才は誰なのか。嫡男としては高視公だが、最終的な官位は四男淳茂公の方が上である。岩手県一関市千厩町磐清水字松森の福寿山安楽寺には「菅秀才精霊塔」というのが存在する。ここにおいては菅秀才は道真公の四男とされている。
命の恩人の父親、白太夫の近くにいるのは高視公だが…。まあ、どちらにしても御二方とも大学頭ですから、ほんに血は争えぬ秀才でございます。
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