極楽の象徴は蓮の花だが、満開の桜に比べたら地味に思える。泥中から清らかな大輪を開く蓮花は、それはそれで美しい。ただし、ソメイヨシノがこれほどに広がった現代にあっては、花見をして酒を呷り、周囲の客の幸せそうな姿を見ると、地上の楽園はここであったかと勘違いしてしまう。
高砂市曽根町に「曽根天満宮」が鎮座している。お参りしたのは桜の良い頃で、絵にも描けない美しさなので写真にしてきた。ただし、こちらは天満宮。御祭神は菅原道真である。同じ紹介するなら梅の美しい頃に行くべきだったかもしれない。
京から瀬戸内を経て大宰府に至るまで、菅公・菅原道真ゆかりの地に「菅公聖蹟二十五拝」という霊場巡りの神社がある。曽根天満宮はその十六番となる。
聖蹟と呼ばれるからには、菅公は何らかの足跡を残しているはずだ。神社でいただいた由緒書を読んでみよう。
醍醐天皇の御代、延喜元年(九〇一)菅原道真公は冤罪を蒙り九州太宰府へ左遷された。その途次、伊保港(当社東南約二粁)に船を寄せ給い、当社西方の日笠山に登られ、播磨灘の風光を賞ぜられた。そして「我に罪なくば栄えよ」と祈念して山上の小松を植えられた。これが、霊松曽根の松で、現在も幹が保存されている。後、四男淳茂公が臣一三人と共に当地に至り、公縁りの地に社を建てお祀りしたのが創始と伝えられる。
菅原淳茂(あつしげ)は道真の五男で、父の配流と同じくして播磨に流されたようだ。ここは淳茂の配所だったとも考えられる。
それでも、ここは伝説を楽しむとしよう。菅公御手植えの松が成長して霊松「曽根の松」となったという。下の写真を見ると、天然記念物の表示がある。
しかし、それらしい松の巨木が目に入らない。そこで神社が門前に掲げる略記を読んでみよう。
菅公手植の霊松は、天正の兵火以後衰弱し、寛政一〇年(一七九八)枯死した。その幹は霊松殿に保存し、その枝を使用して一〇分の一の模型が作られている。枯死の直前、寛政七年に当社を訪れた小林一茶は「散り松葉 昔ながらの掃除番」との句を残した。
初代樹下に実生した二代の松は、明治初年には、幹まわり一二尺、高さ三五尺、枝張は南北二〇間、東西一五間の壮観を呈し、大正十三年天然記念物に指定された。
昭和二三年頃から、松喰虫に襲われ、同二七年に枯死した。三代の松は、それと前後して枯死、四代も松喰い虫の猛威を受けて枯れ、現在は五代の松を育成している。
そこで、霊松殿を覗いてみると、菅公手植えの松がとぐろを巻くように鎮座していた。小林一茶の見た松もこれだ。
こちらは一茶の句碑である。「散松葉」は初夏の季語である。今年も落ちた松葉の掃除をする時期になった。昔から行われてきた松葉かきだ。これまでにどのくらい繰り返されてきたことだろうか。「昔ながらの」の語で松の長い歴史に思いを致している。
小林一茶が曽根を訪れたのは寛政7年(1795)3月13日である。古今書院『一茶叢書第5編』(昭2)所収の「寛政紀行」で関連部分を読んでみよう。
十三日、姫路の城を通る。(書)写より一里也。先音に聞く名城を見て、豆崎より高砂、曽根の別道に赴く。曽根の松、菅公の植給ふと、惜い哉、片枝かれてあれば、
世の人に見よと枯たか松片え(註:本文此ノ句墨消シ)
散松葉昔ながらの掃除番
一茶が訪れた当時、すでに片枝が枯れていたようだ。変わることのなかった巨大な松の異変、それを一茶は巨木の声のように感じたのだ。しかし、作品とするにはあまりにも直截的な表現だったので抹消してしまったのだろう。
本当に菅公の手植えだったかどうかはともかく、そう伝えられた名木を一茶が訪ね来て、重ねた歳月の長さを句に詠んだ。その3年後に枯死してしまったとはいえ、その幹を今も見ることができる。さすがに松は目出度い木である。
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