自由民権運動こそ近代日本の精華だと思う。近代とは何か。それは経済から見れば資本主義であり、対外的には帝国主義の時代だったが、市民社会の形成という観点からは民主主義の萌芽、発達の時期と捉えることができる。
アメリカには独立戦争があり、フランスには革命がある。そして日本には自由民権運動がある。
高知市帯屋町一丁目に「立志社跡」がある。隣接して「自由は土佐の山間より出づ」との石碑がある。
「自由は土佐の山間より」というのは「高知県詞」という、他に類例のない県のシンボルである。出典は、明治10年の立志社機関誌「海南新誌」創刊号に掲載された植木枝盛の文章だ。原文は「自由ハ土佐ノ山間ヨリ発シタリ」である。
この句に象徴されるように、自由民権運動の原点は立志社にある。立志社跡の石碑には次のように刻まれている。
青い空 青い海 青い山 ここに若さと自由がある 明治七年高知に誕生した立志社はこの大自然を象徴して自由民権の理想を掲げ日本近代化のために先駆した
「自由は土佐の山間より出づ」といわれた往年を回想して私たちは碑前に若さと自由をたたえよう
昭和三十七年七月
立志社は明治7年(1874)4月10日、この地で発足した。この有名な政治結社は、どのようにして組織されたのだろうか。
征韓論に端を発した明治六年政変により、参議・板垣退助は下野する。これに同調して官職を辞した片岡健吉らは「海南義社」を、板垣退助らは「幸福安全社」を組織する。これらが基礎となって、明治7年1月12日に日本最初の政党と言われる「愛国公党」が結成される。
さらに同月17日、板垣退助、江藤新平らは「民撰議院設立建白書」を政府に提出する。板垣らは不平士族に思想的な拠り所を用意したのであった。
ところが、2月になって佐賀で不平士族の反乱が勃発、江藤新平がその首領となる。この影響で東京における板垣の活動は困難となり、高知へ帰郷、愛国公党は自然消滅となる。そして板垣は、片岡健吉や植木枝盛らとともに立志社を設立するのである。
立志社は今の地域政党みたいなもので国会設立を主張するのだが、当初は生活に窮乏する士族への授産に力を入れていた。
武力ではなく、言論で対抗する。不平の声を代弁するのではなく、不平の原因を解消しようとする。高知の民権派の態度は立派だ。やはり自由は土佐の山間から生まれたのであった。
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