「ミュンヘン一揆」は、1923年11月8~9日にヒトラーらが政権奪取を企図して起こしたクーデターである。失敗に終わった。だが、後にヒトラー政権が実現すると、一揆ゆかりのミュンヘン・オデオン広場は聖地と化していくのだ。ナチス政権の原点であると。
ヒトラーの政権奪取と明治維新を同列に評価するつもりは毛頭ないが、政権の原点を顕彰する心性は共通している。敗北からの起死回生という劇的な展開が、大衆の心を惹きつけ、政権の正統性を高めている。明治政府にとって「七卿落ち」は、まさに苦節4年。幕末の過激派は、維新により見事に正統政権へ変身するのである。
太宰府市宰府四丁目の延寿王院の門前に「七卿西竄(しちきょうせいざん)碑」がある。
「西竄」とは西へ逃れることである。時は文久3年(1863)8月13日、長州藩(尊王攘夷派)の工作が奏功し、孝明天皇の攘夷親征の詔が発せられる。ところが、急進的な変革を望まない天皇の真の意向を知った薩摩藩と会津藩(公武合体派)は、8月18日にクーデターを決行、長州藩の勢力を朝廷から排除する。
天皇を政治的に利用しようとした排外主義的な過激派を、天皇の意を汲み幕府と協調しようとする現実主義的な穏健派が打倒したのである。過激派長州藩は「尊王」という大義を掲げたが、真に勤王的な行動を起こしたのは薩摩藩と会津藩であった。
翌19日、過激派を支えた7人の公家が、長州藩とともに都落ちする。7人とは、三条実美(さんじょうさねとみ)・三条西季知(さんじょうにしすえとも)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・壬生基修(みぶもとおさ)・四条隆謌(しじょうたかうた)・錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)・沢宣嘉(さわのぶよし)である。
七卿西竄碑には、蓑笠をまとった公家とこれを警護する甲冑の武士の一団が、提灯をたよりに夜道を歩く様子が描かれている。このレリーフの原図は、七卿落ちの一人、沢宣嘉が明治5年に描いた「七卿落図」である。現在、萩博物館が所蔵している。
七卿のうち沢宣嘉は、滞在先の三田尻招賢閣(防府市お茶屋町)を10月2日に筑前藩士平野國臣らの手引きで脱出し、生野で討幕の兵を挙げた。このことは以前にレポートしている。また、錦小路頼徳は元治元年(1864)4月27日に長州で病没する。山口市大字下宇野令の赤妻神社に墓がある。
長州藩は失地回復を目指して京へ軍を進めるも、7月19日の禁門の変で大敗する。五卿は帰洛しようと瀬戸内を東へ進んでいたが、敗報を聞きあわてて引き返し、三田尻から山口へ移った。
その後、長州征伐により長州藩では現実主義的な俗論派が台頭したため、五卿は山口を出て長府へ向かい、11月17日に功山寺(下関市長府川端一丁目)に入った。
さらに、征長軍との交渉により五卿は長州追放筑前預りとなり、元治2年(1865)1月18日にいったん赤間宿に移った。宗像市赤間6丁目の法然寺の側に「五卿西遷之遺跡」の石碑が建てられている。
そして、2月13日に太宰府の延寿王院に入り、約3年間をここで過ごした。だが、軟禁生活ではなく、小旅行に出掛けることもあったようだ。三条実美は歌が得意で、いつになったら帰れるのだろうか、と次のように詠んだ。(堀江秀雄『維新英雄詩人伝』大日本百科全書刊行会、昭和18)
かりそめとおもひし宿の花すゝき ことしも我をまねきとめたり
そして、慶応3年(1867)12月19日に太宰府を出立し京へと向かう。9日には王政復古の大号令が発せられ、幕府に代わる新政権が樹立されていた。
明治政府において、三条実美は太政大臣、三条西季知は参与、東久世通禧は初代貴族院副議長、壬生基修は東京府知事、四条隆謌は陸軍中将と、それぞれに活躍することとなる。
追放された五卿が延寿王院で過ごしていた間に、薩摩と長州は同盟して、幕府に代わる新体制を志向する動きに出る。過激派武士は全国各地で活動したが、過激派公家は延寿王院にいた。公家にとっての近代国家はここから始まったのだ。
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