430年前に我が国が実施した刀狩を、今こそアメリカでも実施すべきである。バレンタインデーの14日、フロリダ州の高校で銃の乱射があり、生徒ら17人が死亡した。学校での惨劇を防ぐには、もはや銃規制しかありえない。
天正十六年(1588)に秀吉が全国に発した刀狩令にはモデルがある。その三年前、鉄砲による軍事力を誇った雑賀一揆を鎮圧した際に「在々百姓等、自今以後、弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等令停止訖(ちょうじせしめおわんぬ)」という命令を秀吉は出している。雑賀衆から鉄砲を取り上げることには、大きな意味があったのだ。
和歌山市屏風丁に「戦国の鉄砲大将 雑賀孫市像」があった。チェンソーアーティストの城所ケイジ氏が平成18年に制作した。二本差しのうち一本が折れている。この木像は、聞くところによれば、昨年5月に撤去され、今はないらしい。
雑賀衆は根来衆とともに早い時期から鉄砲を取り入れ、強力な傭兵として活躍した。元亀元年(1570)に三好三人衆と織田信長がぶつかると、三好三人衆に味方し勝利に貢献した。石山合戦では本願寺側について信長に抵抗した。本能寺の変後は秀吉にも抵抗したが、天正十三年(1585)の第二次紀州征伐で鎮圧された。
雑賀孫市の史料は少なく、実像は不明と言わざるを得ないが、木像の迫力は妙に説得力がある。名は「雑賀孫市」ではなく、「鈴木孫一重秀」として当時の記録に登場する。
和歌山市専光寺門前丁の専光寺に「血槍洗いの手水鉢」がある。寺伝によれば、信長との「鷺森の合戦」で、孫一が血のついた槍を洗ったという。
孫一は雑賀衆でもっとも知られた人物であるものの、常にリーダーとして信長・秀吉に抵抗したわけではない。石山合戦後は信長につき、秀吉に従う。抵抗する者、従う者、雑賀衆の生き方もさまざまであった。
長篠の戦いにおける鉄砲の三段撃ちは有名だが、雑賀衆は、それに先立つ五年前にシステマティックな撃ち方を開発していたという。先述した三好三人衆に与していた時、元亀元年(1570)9月18日のことである。『陰徳太平記』巻之四十七には、次のように記述されている。
此日大坂より打出たる鉄砲足軽は、廿五人に一人の小頭を付け、五十人を一組と成し、下知を加へて射させける。中にも妙手と聞えしは、蛍、小雀、下針、鶴頭、発中、但中、無二、など云て、此等は越前、加賀、紀伊、丹波より馳集りたる兵也。心も剛に力も亦強く目も利たれば浮失は一つも無りしとぞ。
二段撃ちを行い、鉄砲の妙手も多数いたという。さすがは雑賀衆である。とはいえ現在、長篠の戦における三段撃ちは疑問視され、二段撃ちを記した『陰徳太平記』の信頼性も揺らいでいる。それでも、雑賀衆=鉄砲打ちというイメージ形成には役立っている。特に、蛍や小雀などのスナイパーは、小説・ゲームにおいては格好のキャラとなろう。雑賀衆をリスペクトする催し、第14回孫市まつりは3月25日(日)に行われる。
さしもの雑賀衆も第二次紀州征伐以後は特段の動きがなく、歴史の舞台を静かに降りた。やはり刀狩は平和への確かな一歩ということだろう。アメリカも早く見習うべきだ。
ご覧いただきありがとうございます。派手なキャラが歴史では好まれますが、今も恩恵を受ける業績を残した地味な人物もいますね。おっしゃるとおり、町づくりは偉大な業績だと思います。ご教示に感謝いたします。
投稿情報: 玉山 | 2020/07/03 19:54
「和歌山人の歴史観」への疑義
鈴木孫一や雑賀衆は、作り話を鵜呑みのままに過大評価されすぎている。
心ある和歌山人なら、城下町を拓くなど様々に功績がある藩祖徳川頼宣を選ぶ。世の中、何が一番大事なのか。江戸と戦国とでは比較にならない。
この町でよく感じる、他所から来た人物を受容しない排他性は陰湿。文化的な治世を築いた偉人を等閑視するのは愚行としか思えない。
投稿情報: 南龍入紀400年 | 2020/07/03 15:54