大阪万博の開会式の日、万博会場に夢の贈り物が届けられた。120キロ近く離れた敦賀原発の電気で「原子の灯」が万博会場にともったのである。その日本原子力発電敦賀発電所1号機も、老朽化により廃炉が決定されている。原子力が夢の世界を開くかに思われた時代は過ぎ去り、むしろ悪夢の事態さえ想定せねばならなくなった。
原子力発電はクリーンなエネルギーで、地球温暖化防止の切り札と考えられていた平成13年6月、敦賀市内に「アクアトム」という原子力理解促進のための施設がオープンした。年間8万人くらいの入館者があったが、民主党政権の事業仕分けを受け、平成24年3月に閉館した。
この写真では、張られたロープが過去を封印しているかのように見えるが、昨年3月に「キッズパークつるが」としてリニューアル・オープンした。日本最大級という5階建てネット遊具「スーパーコクーン」がウリだ。夢か悪夢か分からぬ原子力よりも、夢と希望を抱く子どもたちに投資するほうが、回収率は高いはずだ。
敦賀市神楽町二丁目に「西方寺跡」の石碑がある。キッズパークつるがの入口横にある。
写真左の掲示板には、「アクアトム」閉館のお知らせが一枚だけ貼ってあった。西方寺とは、どのようなお寺なのか。説明板を読んでみよう。
西方寺とお砂持ち神事
正安3年(1301)、北陸を布教していた時宗の第2世遊行上人真教が当地にとどまったときである。真教は、気比社の西門前の参道やその付近が沼地となり、庶民が参詣に難儀しているのを知って、海辺より砂を運び修復することにした。その事業に賛同した神官、僧侶、遊女をはじめ多数の人達の参加があって、日ならずして参道は立派になった。
その参道を三丁縄手と呼び、やがて気比社の門前町となって賑わうようになった。真教の工事は、歴代の遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時には来敦し、「遊行のお砂持ち」として行事化された。
これらにちなんで、芭蕉も『奥の細道』で「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
また、真教は気比の社前の護持を願って、自影の像を彫り堂に安置した。やがてこの堂は御影堂と呼ばれ、西方寺をさす言葉になった。さらに三丁縄手は御影堂前町と呼ばれるようになった。この西方寺は、昭和20年の戦災で焼失し、後、松島町2丁目の来迎寺境内に移転した。
お砂持ち神事と芭蕉の句については、本ブログ記事「神前に真砂をになひたまふ」で紹介した。西方寺跡から気比神宮の大鳥居に向かう参道が「三丁縄手」で、今は「神楽通り」と呼ばれている。このあたりは、毎年9月の敦賀まつりでは、たいへん賑わうそうだ。
他阿真教上人ゆかりの西方寺は、戦災で失われた。昭和20年7月17日の敦賀大空襲は、日本海沿岸の都市としては最初の空襲だったという。市街地の約8割が被災し、死者は109人を数えた。気比神宮の大鳥居は奇跡的に被災を免れたが、戦争さえなければ、もっとたくさんの文化財が残ったことだろう。
戦争が人災なら、原発事故はどうなのか。日本列島上に絶対安全な立地があり得るのか。門前町の発達、空襲、原子力の利用と再考…。「西方寺」「アクアトム」そして「キッズパークつるが」を通して、敦賀の今昔の一側面を見ることができる。
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