今年も初詣で神社は大賑わいだった。敦賀市の気比神宮には例年10万人くらいの人出があるというが、初詣客は新年をとりわけ清々しい気持ちで迎えたことだろう。というのも、約30年ぶりに大鳥居のお色直しがあったからだ。年末の30日にくぐり初め式が行われた。
敦賀市曙町の氣比神宮に国指定重要文化財「気比神宮大鳥居」がある。広島の厳島神社、奈良の春日大社と並び「日本三大木造鳥居」とされている。
私が詣でたのは修理以前だったので、大鳥居の漆は剥げ落ちが目立っていた。現在はインスタ映えしそうなほど光沢があるが、しばらくすると落ち着いた風合いになるという。正保二年(1645)の建立の両部鳥居で、高さ10・93メートル、柱の間の距離7・45メートルという堂々たる構えである。この鳥居をくぐり奥へ奥へと進むと、下のような場所が見える。
敦賀市曙町の敦賀市立敦賀北小学校の校庭に「土公(どこう)」がある。子どもたちも「神様専用の場所」として大切にしているそうだ。
学校の中に「神様専用の場所」がつくられたのではない。その逆で、境内地が学校用地になったのである。それでも「土公」は、特に神聖な場所として旧来のまま保存された。ここは、「氣比之大神(けひのおおかみ)降臨の地」、つまり氣比神宮発祥の地なのである。
「氣比之大神」とは、どのような神様なのか。氣比神宮の御祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊、玉姫命、武内宿禰命の七柱である。このうち主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。『古事記』中巻・仲哀天皇段には、次のように記されている。
故(かれ)建内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)、其の太子(ひつぎのみこ)を率(ゐ)てまつりて、禊(みそぎ)せむとして淡海また若狭国を経歴(へ)し時に、高志前(こしのみちのくち)の角鹿(つぬが)に、假宮(かりみや)を造りて坐(ま)せまつりき。爾(かれ)其地に坐す、伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜の夢に見えて、吾が名を、御子の御名に易(か)へまく欲しと云(の)りたまひき。爾(かれ)言祷(ことほ)ぎて、恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まに/\)易(か)へ奉らむと白(まを)しき。亦其の神詔(の)りたまはく、明日の旦(あした)、浜に幸(いでま)す応(べ)し。易名(なかへ)の幣(ゐやじり)献(たてまつ)らむとのりたまひき。故(かれ)其旦(つとめて)、浜に幸行(いでま)せる時、鼻毀(やぶ)れたる入鹿(いるか)魚、既に一浦に依れり。是に御子(みこ)、神に白(まを)さしめたまはく、我に御食(みけ)の魚(な)給へりと云(まを)さしめたまひき。故(かれ)亦其の御名を称(たた)へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(まお)す。故(かれ)今に気比大神(けひのおほかみ)となも謂(まを)す。亦其の入鹿(いるか)魚の鼻の血臰(くさ)かりき。故(かれ)其の浦を血浦(ちうら)と謂ひしを、今は都奴賀(つぬが)と謂ふなる。
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、皇太子(=応神天皇)を連れて、みそぎをしようと近江、若狭を経て越前の角鹿(つぬが)に、仮宮を造って滞在していた。ある時、その地のイザサワケという神様が夢に現れ、
「私の名を皇太子の名前と交換したいのだが」
とおっしゃった。武内宿禰は喜んで申し上げた。
「おそれ多いことにございます。神様のおっしゃるとおりに名を換えましょう」
すると、神様はこう言った。
「明朝、浜にお出でなさい。名を交換したしるしを与えよう」
そこで翌朝、浜に行ってみると鼻を怪我したイルカが集まっていた。皇太子は神様に申し上げた。
「神様は私に食べ物の魚を与えてくださったんですね」
こういうわけで、イザサワケの神様は御食津大神(みけつおおかみ)とも呼ばれる。今は気比大神(けひのおおかみ)ともいう。また、そのイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を血浦(ちうら)と呼んでいたが、今は都奴賀(つぬが)という。
ストーリーは分かりやすいが、その意味が分かりにくい。なぜ名前を交換するのか。なぜイルカは鼻を怪我しているのか。なぜごほうびに食料がもらえたのか。そして、なぜ敦賀という場所なのか。皇太子にとって成人儀礼としての意味があったとか、敦賀は宮廷の食料が献上される場所だったとか、いろいろと考えられるらしい。
また、『日本書紀』巻第十・応神天皇即位前紀には、次のように記されている。
一に云ふ、初め天皇太子として越国に行(いで)まして、角鹿(つぬか)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拝み祭ひたまふ。時に大神太子と名相易(か)へたまふ。故れ大神を号(なづ)けて、去来紗別(イザサワケ)神と曰し、太子をば誉田別(ホムダワケ)尊と名づく。然らば則ち大神の本名を誉田別(ホムダワケ)神、太子の元の名をば去来紗別(イザサワケ)尊と謂ふべし。然れども見る所無し、未だ詳かならず。
一説によると、応神天皇は皇太子として北陸を訪問し、敦賀の気比神宮の神様を拝んだ。その時、神様は皇太子と名前の交換をした。だから、神様をイザサワケノカミと呼び、皇太子をホムダワケノミコトという。ならば、神様の本名をホムダワケノカミといい、皇太子のもとの名をイザサワケノミコトというはずだが、そのような記録はなく、詳細は分からない。
名前の交換をしたことは記されているものの、「未だ詳かならず」と自信なさげだ。ただ、氣比神宮の御祭神の方々は、記紀にも登場するビッグネームだということは分かる。特にイザサワケノミコトは上記のエピソードから、食べ物をつかさどる大変ありがたい神様とされている。食べることは生きること。どうか今年もおいしくいただけますように。
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