旅をしていると、どう解釈してよいのか分からないモニュメントに出会うことがある。抽象的な造形なら都市デザインに溶け込んで気にならないが、今日紹介する群像は実に具体的だ。
ポーズがキメキメの人物なら偉人像だと分かる。しかし、この群像は作業風景にしか見えない。老人と人夫がモッコを担いでいる。もう一人の人夫は地面を掘っている。
気になるのは先頭に立つ老人だ。なぜ彼はモッコを担いでいるのだろうか。いや、担がされているのではないか。「その意に反する苦役に服させられない」という憲法第18条に違反しているのではないか。
そうではない。無知がもたらす要らぬ想像であった。このお方こそ誰あろう、一遍上人の後継者、時宗二祖、他阿真教(たあしんきょう)上人におわしますぞ。
敦賀市神楽町一丁目に「お砂持ち神事」の像がある。
氣比神宮の前にあるから、何らかの関係があることが想像できる。ここは説明板に教えてもらおう。
お砂持ち神事の由来
正安3年(西暦1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった。)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
さすがは遊行上人、積善の宗派に余慶あり。その陰徳は人々の心をつかみ、今に至るまで時宗は栄えている。私も藤沢市の清浄光寺で当代遊行、他阿真円上人から御賦算を拝受したことがある。74代目の当代が「遊行上人のお砂持ち神事」を行ったのは、平成17年5月15日であった。
これを単なる宗教行事と捉えてはならない。松尾芭蕉『おくのほそ道』に記された文学的題材なのである。
その夜、月殊(ことに)晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷(しけ)るがごとし。往昔(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来の煩(わずらひ)なし。古例今にたえず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持(すなもち)と申侍る」と、亭主のかたりける。
月清し遊行のもてる砂の上
「その夜」とは、元禄二年(1689)8月14日。月がこうこうと地面を照らしていた。芭蕉が「あしたの晩も、こないに晴れるやろか」と言うと、「北陸やで、明日晴れるか曇るか、分からんで。まあ、酒でも」と宿の亭主、出雲屋弥市郎が答える。(酔った勢いで?)氣比神宮にお参りした。仲哀天皇を祀っている。境内は荘厳な雰囲気で、松の木から漏れる月光が冴え、社前の白砂は霜が降りたかのようだ。その昔、遊行二世の他阿真教上人が人々の幸せを願い、みずから草を刈り、土を運んでぬかるみをなくし、参詣に難儀しないよう奉仕した。この例に倣い今も、神前に砂を運ぶ行事が続けられている。亭主は「これを遊行のお砂持ちといいます」と教えてくれた。
遊行上人が運んだ砂の上を清らかに月光が照らしている。神域に相応しい光景だ。上人の御心の清らかさに、私の心も洗われる思いがする。
出雲屋の亭主がこんな話をしたのも、同じ年の4月に、遊行43代の尊真上人によるお砂持ち神事が執り行われていたからだ。このように連綿と守り続けられてきた神事と遊行上人の願い、そして芭蕉の感慨を、私たちに分かりやすく教えてくれるのが、かの群像である。初見で疑問符が並んだモニュメントは実に、歴史、宗教、文学と三分野にわたって意義を有していたのである。
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