日本三大沈鐘伝説地という言い方をするのかどうか知らないが、鐘が沈んでいるという伝説で有名なのは、「筑前の鐘の岬・越前の鐘が崎・隅田川の鐘が淵」(志田義秀『日本の伝説と童話』大東出版社)である。今の地名ではそれぞれ、宗像市鐘崎、敦賀市金ヶ崎町、鐘ヶ淵駅のある墨田区墨田のあたりに相当する。
このうち伝説を松尾芭蕉が句に詠んで、いっそう味わいを深くしているのが、敦賀の金ヶ崎だ。さっそく行ってみよう。
敦賀市金ヶ崎町の金前寺に「芭蕉翁鐘塚」がある。芭蕉を慕って全国各地に立てられた翁塚の一つで、福井県最古という宝暦十一年(1761)の建立である。
ちなみに全国最古の翁塚は、貞享4年(1687)に作品集完成を記念して建てられた「千鳥塚」で、名古屋市緑区鳴海町字三王山の千句塚公園にある。敦賀の鐘塚にはどのような由来があるのだろうか。説明の碑文を読んでみよう。
月いづこ鐘は沈るうみのそこ
この句は元禄二年八月十五日の雨月に翁南北朝時代(一三三六)金ヶ崎落城の悲史にまつわる陣鐘の事を聞き詠んだものである。この塚は翁の歿後六十八年に白崎琴路らが建立し、その翌年より墨直しの行事が行われ古例となった。
白崎琴路は、国指定重要文化財「おくのほそ道」素龍清書本を一時期所有していた俳人である。有名な紀行『おくのほそ道』によれば、芭蕉翁は元禄二年(1689)8月14日の夕暮れに敦賀の宿に入った。その夜のことは前回の「神前に真砂をになひたまふ」でレポートしている。
沈鐘伝説を聞いたのは翌15日の夜だ。宿の亭主の言うとおり雨になり「名月や北国日和定なき」の名句を残す。『俳諧四幅対』という句集には、「名月や」の句に続けて、次のように記されている。
同じ夜あるじの物語に此海に釣鐘のしづみて侍るを国守(くにのかみ)の海士を入てたづねさせ給へど龍頭のさかさまに落入て引あぐべき便もなしと聞て
月いづく鐘はしづめる海の底
宿の主人から「この海に釣鐘が沈んでいるのを、殿様が海士に潜らせて探させたところ、龍頭がさかさまになって海底にめり込んでおり、引き上げる方法がない」と芭蕉は聞いた。「せっかくの名月が見えないのは、龍頭がさかさまになっているので龍神様がお怒りになっているからだろうか。雨雲の向こうにある月、暗い海の底に沈んでいる鐘、手の届かない二つの間にいるこの私だ」としみじみ思った。
この鐘は、延元二年(1337)に金ヶ崎の戦いで敗れ、城を枕に討死した新田義顕が沈めたものと伝えられている。だが、貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十七宗像郡下「鐘御崎」の項には次のような記述がある。
越前国敦賀郡金ヶ崎の海に、昔朝鮮より鐘を渡せしが沈て爰に在。其故に鐘か崎と云。気比の海べたに在。越前国に在は逆に成て有りといふ。
越前の金ヶ崎には、朝鮮から持って来る途中で沈んだ鐘がある。気比神宮の海のほとりだ。これはさかさまになっている。戦いとは関係のない別の説だ。芭蕉が耳にしたのは、南朝勢の陣鐘か朝鮮渡来の梵鐘か。
どちらにしろ、おそらく鐘が引き上げられることはないだろう。その沈んだ鐘というのは、大切なものを海に沈めた悔恨であり、敗れた武将の無念の思いであるからだ。悔しさついでに言うと、「月いずく」の句は『おくのほそ道』に採録されなかった。採録されていれば、国指定名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されていたかもしれないのに。
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