竪穴住居の耐用年数は20年だという説があるが、その根拠は伊勢神宮の式年遷宮が二十年に一度だからだそうだ。茅葺の屋根は傷みやすいから、実際にはもう少し短いようだ。ある調査では13年という数値が示されている。
津山市沼に「沼弥生住居址群」がある。県指定史跡としては「沼遺跡」という。
復元住居がこの遺跡のシンボルだ。平成21年度復元なので、そろそろ耐用年数は限界に近いのだろうか。竪穴住居ならどこも同じというわけではなく、登呂遺跡の平面が隅丸方形なのに対して、沼遺跡は円形である。
沼遺跡の発見は偶然だったという。その現場がこれだ。
遺跡は切通しの道で東西に分けられるが、その道沿いに説明板があるので読んでみよう。
1951(昭和26)年8月31日、たまたまこの切通しを通りかかった人が、竪穴住居址の断面が露出していることを発見しました。
翌年以降、岡山大学の近藤義郎氏らによって津山市初の住居址発掘調査が実施され、竪穴住居・高床倉庫等が発見されました。
当時は住居址のみの調査が普通で、この発掘調査のように集落全体を調査することはありませんでした。現在では普通に行われている「集落全体を調査する」という発掘調査の先駆けとなった遺跡として、全国的に知られています。
すべてはここから始まったのです
津山やよいライオンズクラブ寄贈
このエピソードで思い出すのは「岩宿の発見」である。相澤さんが有名な槍先形尖頭器を発見したのは昭和24年(1949)であった。昭和二十年代半ばはそういう時代だったのだろう。
沼遺跡発見のきっかけとなった竪穴住居址には、どのような特徴があるのだろうか。昭和60年3月の津山市教育委員会による説明板には、次のように記されている。
A住居址
北よりの道路ぎわにある竪穴住居址。東半分が道路によって切り取られている。現状で直径八・四mの半円径を呈する。現存する柱穴は四か所。火災にあっており、柱や垂木などが倒壊したまま炭化状態で遺存していた。弥生土器・石鏃・ヤリガンナ・ガラス小玉などが出土した。
そこは火災現場だったという。耐火構造など考えも及ばない純天然素材の住宅だから、火災の危険性は極めて高かっただろう。失火が原因なのだろうが、伝染病などの事件に際して家を焼くこともあったそうだ。
東西の切通しから重要な遺跡が発見された。よし私もと気持ちは高まるものの、うちは干拓地なので切通しがない。しかたがないので、先人の偉大な発見をこのように広く伝えるインフルエンサーを以て自ら任じ、史学の発展に貢献したいと思う。