現代では大人しい牛と猛々しい鬼のイメージは結びつきにくいが、かつて「牛鬼」という妖怪がいた。『枕草子』百四十八段にも登場するから、けっこう古くから人々を怖がらせていたようだ。頭が鬼で首から下は牛の姿の鬼面牛だという。その牛鬼を封じ込めたといわれる塚があるので、恐る恐る行ってみた。
美作市滝宮(たきみや)の天石門別(あまのいわとわけ)神社に「磐座(いわくら)」がある。市指定重要文化財(建造物)である。「天岩門別神社の森」は市指定天然記念物、元禄十年建築の「天石門別神社本殿」は県指定重要文化財(建造物)である。
石を丸く積んだ塚で、神秘性をまとうかのように苔むし、造形美に優れている。いったい、いつ誰が何のために築いたものだろうか。文化財としては古代祭場とのことだが、その意味をめぐって想像力が刺激される。土井卓治編著『吉備の伝説』(第一法規、昭和51年)が記録する伝説を紹介しよう。
美作の英田郡英田町、河合川上流の滝宮には神さびた滝宮(天石門別神社)がある。この本殿の裏に直径約二メートル、盛り上がった半円形に石をきちんとつめてたたんだ塚があり、猟師塚と呼んでいる。これは、上流にある滝のあたりの洞穴にひそんでいた牛鬼を、勇者がおそって退治し、ここに石こづめにしたものという。塚の周囲には注連縄をはってある。伝説以外には判断しかねるものである。宮の付近の自然は美しい渓谷であるが、近くダムでこの宮も水没することになっている。
最後の一文が気になる。ダムにより水没? 『吉備の伝説』掲載の写真と比べると、社殿の位置がまったく異なる。かつては写真右端の石碑の位置に鎮座していた。石碑には「御正殿旧跡」とある。これは神社前に瀧の宮ダムが造られることに伴い、昭和52年に地上げをして社殿を移したのである。水没することになったわけではなく、水没の可能性が生じたのであった。川は河会川と表記するのが正しい。
ということは磐座は昔のままだ。解体しようものなら石子詰で封印した牛鬼が蘇生したかもしれない。そんなに想像すれば、それらしく思える雰囲気は十分にある。もし「ゴトッ」と石の音がして爪らしきものがのぞいたなら、一目散に逃げ出すだろう。
手元にもう一冊本がある。島田秀三郎『心のふるさと・美作伝説考』も地域の伝承を多く集めている。こちらには次のように記されている。
英田郡英田町滝宮に古書東鑑に載っている「牛の如き怪物」クダンまたは牛鬼と呼ばれる魔性のものの伝説がある。
いつの頃か、滝宮の境内にある滝壺に牛鬼が棲んでいて里人を苦しめるというので、渋谷金王丸という剛勇の武者が、牛鬼の棲む滝壺に入ってこれを退治したという。社宝の古い薙刀はこの時金王丸が使用したものだと伝えられている。
確かに史書『吾妻鏡』巻四十一の建長三年三月六日条に「武蔵国浅草寺如牛者忽然出現」とあり、24人が倒れ7人の死者を出したと記録されているからから、単なる伝承ではないのかもしれない。いったい何があったのか。
勇者の名前は渋谷金王丸(しぶやのこんのうまる)。金王丸は源義朝に仕えた童(わらわ)で、義朝暗殺の下手人を討った後に上洛し、常盤御前に凶事を注進した人物と伝えられている。後に「堀河夜討」で知られる土佐坊昌俊になったともいわれるが定かでない。いずれにせよ鎌倉幕府の御家人として活躍した渋谷氏に関係するようだ。中世に渋谷氏はここ河会郷の地頭として長く勢力を維持したので、金王丸の伝承が生まれたのかもしれない。
牛鬼の棲む滝壺とはこのことだろうか。神社の背後に優しい名前の「琴引きの滝」がある。市の名勝に指定されている。高さ13mで雄滝と雌滝の二段構成である。滝壺に牛鬼が潜むような恐ろしさはない。水の流れは自然の滝というより、日本庭園に設えた人造の滝のようだ。雨の直後なら岩の黒ずんだ部分を激流が迸るのだろう。
名勝に天然記念物、近世の建造物に古代遺跡と文化財の宝庫であり、神社は美作三宮という社格を誇る。そして牛鬼とそれを退治した金王丸の伝説。さらには地頭渋谷氏の威勢という歴史的背景。これ以上のテーマパークがどこにあろうか。6月に入って平日のみの一般営業だったUSJは、26日(土)から土日の営業を再開した。USJもいいが、天石門別神社AIJにもぜひ訪れてほしい。