義を見てせざるは勇なきなり。小さい頃にしたカルタにこんな言葉があった。正義と勇気は不可分だと子供ながらに理解した。理解した? いや,知行合一ならば,今でも理解できていない。言うは易く行うは難し。正義と勇気を持ち行動した庶民,彼らのことを「義民」と呼ぶ。
三木市府内町の本長寺に「三木町義民貝屋大西与三右衛門勝家山崎屋岡村源兵衛成次顕彰碑」と義民の一人「大西与三右衛門の墓」がある。本長寺は大西の菩提寺である。
三木合戦,世に言う「三木の干殺し」の後,秀吉は領民の懐柔策として免租の制札を与えていた。しかし,徳川の世も4代家綱の時代に「延宝の検地令」が出されるに及んで,赦免地取消しの危機に瀕したのである。
この時,決死の覚悟で元の老中,酒井雅楽頭忠清に嘆願したのが,大庄屋の岡村源兵衛成次と年寄役の大西与三右衛門勝家。延宝6年のことである。初めは門前払いが続いたが,三日三晩一粒の米一滴の水も口にせず嘆願した彼等の熱意,そして何より秀吉の制札を証拠として提出したことが功を奏し,ついに貢租永代御赦免の地と確認されたのであった。
二人の義民も処罰されることなく帰郷でき,うち大西与三右衛門は元禄の頃に亡くなった。彼の墓所がある本長寺に,昭和27年に顕彰碑が建立された。今でも12月8日には冬の義民祭が行われている。2009年12月9日の神戸新聞の記事を読もう。
死を覚悟で町守った2人たたえ 三木で冬の義民祭
江戸時代に死罪覚悟で幕府に直訴し、三木の免税特権を守った義民2人をたたえる「冬の義民祭」が8日、三木市府内町の本長寺で開かれた。住民や関係者ら約200人が参列し、先人の功績に思いをはせていた。
戦国時代、羽柴秀吉は三木城主別所長治を滅ぼした後、まちの復興のために三木を免租地とした。1677(延宝5)年、江戸幕府の検地で特権が取り消されそうになり、平田村の大庄屋岡村源兵衛と平山町の年寄大西与三右衛門が命をかけて直訴。老中の家の門前に座り込むなどし、訴えが認められたとされる。
2人の遺徳をしのぶため、毎年、夏の義民祭は7月18日に本要寺(本町)で、冬の義民祭は12月8日に本長寺で開かれている。
この日は、同寺の山下揮正住職らが境内の顕彰碑前で読経した後、三木地区の各区長や遺族らが一人一人焼香。詩吟の摂楠流椿原摂秀さんが、義民をしのんで吟詠を披露し、三木小学校5年2組の児童32人が「義民の歌」を歌った。
三木義民顕彰会実行委員長の蓬莱道龍さん(62)=同市府内町=は「かけがえのない歴史を後世に語り継ぐのは、私たちのつとめだとあらためて感じた」と話した。
悲惨な結末をよく耳にする越訴だが,ここ三木では,二人の義民の勇気と幕閣の度量によって心温まる話となった。さらには,今でも年2回遺徳を偲ぶ行事が続けられていることに感心しきりである。