地名には何がしかの起源があるはずだ。大阪は上町台地に坂があったのだろう。岡山には丘みたいな小さな山があったに違いない。では板橋には板の橋があったのか。行ってみると、それはあった。もっとも板の色をしたコンクリート製だったが。
板橋区仲宿に「板橋」がある。
ここは旧中山道。いちにちじゅうやまみちではない。中山道六十九次のうち第一の宿となる板橋宿のど真ん中である。かつては高札場が近くにあった。板橋区教育委員会『いたばし風土記』を読んでみよう。高札場の説明に続く部分である。
この先にある橋が区名にまでなった板橋です。ここの欄干はコンクリート造りですが表面に木目を表わし木造まがいに着色もされ、わずかですが昔の太鼓橋をしのばすように弧をえがいています。
この橋は下を流れる石神井川が板橋脇本陣家の庭先で急カーブで左折しているため、大雨がふりますと流れがはけきれず溢れ、よくはんらんしました。そのため左方にほぼ直線的な新河を掘りこの方に水の流れを変えさせました。昭和四十七年に新旧両方の川なみにかけかえたのがこの橋です。江戸時代の板橋は三本ずつ五組の橋主を河中に建て橋げたが渡され木製欄干がゆるやかな半円を描くように作られていました。江戸名所図会のさし絵や広重の錦絵によく表わされています。その後明治初めのころには昔の橋の形と少しかわり弧線が直線に近いものに改装されていたようです。この木橋の風致も昭和七年に失なわれコンクリート橋に架けかえられて来たものです。
一の橋と二の橋のつなぎの地点から新川沿いに右に抜け道が出ていますが、そのつけねのところに「距 日本橋二里二十五町五十九間」と書いた里程標柱が建っていますが、これば宿場時代、高札場近くの橋台に建っていたものを模して、いくらかでも昔の面かげを残そうと建てられたものです。
引用文中の「距 日本橋二里二十五町五十九間」が、写真では「距 日本橋二里二十五町三十三間」となっている。『いたばしの史跡探訪』(板橋区教育委員会)に掲載されている明治8年ごろの板橋の写真では三十三間である。『いたばし風土記』は昭和五十年頃の様子を描いているそうだが、その頃は五十九間だったのだろうか。
急カーブだった旧河川は石神井川緑道として、子どもも遊べる憩いの場所となっている。とすると現在、下の写真のように新川のたもとに立つ里程標柱は、かつては当然、旧川のたもと、つまり上の写真の辺りに立っていたのであろう。日本橋から10km642m。江戸から離れる人、江戸へ入る人、それぞれの思いが交錯した歴史の橋であった。