斎藤道三は下剋上の典型的大名だが、その道三に乗っ取られたのが美濃国の守護代の地位にあった斎藤家である。芥川龍之介『芋粥』に登場する藤原利仁の後裔だという。在京することの多い守護の土岐氏に代わって、15世紀後半には全盛期を築いた。今日はその頃の美濃斎藤氏の史跡である。
岐阜市長良福光の臨済宗妙心寺派神護山崇福寺に「関白一条兼良卿寄贈の中門・土塀」がある。
一条兼良(いちじょうかねら)は室町期随一の知の巨人だが、不幸なことに関白就任からほどなくして応仁の乱が勃発した。無益な争いばかりが続く都を離れ奈良で過ごしていたが、文明5年(1473)5月2日には美濃に下向した。当地の実力者、斎藤妙椿(さいとうみょうみん)の招きによるものである。説明板を読んでみよう。
斎藤利藤(妙椿)は、一条兼良卿が美濃に下向する度歓待し、その嗣子利国(としくに)は、一条家と密着し、兼良卿の娘を室とする。この室が後の利貞尼(りていに)であり、大本山妙心寺の寺域のかなりの部分を寄進している。法泉寺で亡くなり、当山第二世仁岫(じんしゅう)宗寿和尚が導師をつとめている。
尚、当山開基は、斎藤利匡(としただ)、その父が利安。斎藤利藤(妙椿)は、利安の兄に当たる。
(中門は、当時のままである。)
地方領主でありながら、中央の権門勢家を招き縁戚関係まで結ぶとは。恐るべし、斎藤妙椿。彼の注目すべきは、経済的に公家の歓心を買い自分の権威を高めようとしたにとどまらず、彼自身が兼良卿と交流した文化人であったことだ。他にも連歌の宗祇(そうぎ)、古今伝授の東常縁(とうのつねより)とも交流があった。
一条兼良はこの折の美濃下向について紀行文に書き著した。『藤河の記』である。冒頭は駢儷体を思わせる対句から始まる。
胡蝶の夢の中に百年の楽を貪り、蝸牛の角の上に二国の諍を論ず。よしといひあしといひ、たゞ假初の事ぞかし。とにつけかくにつけて、ひとつ心を悩すこそ愚かなれ、応仁の初世の乱しより此かた、花の都の故郷をば、あらぬ空の月日のゆきめぐる思ひをなし、ならのはの名におふやどりにしても、六かへりの春秋を送り迎へつつ、うきふし繁き呉竹の、はしになりぬる身をうれへ、こひぢに生るあやめ草のねをのみそふる比にもなりぬれば、山の東みのゝ国に、武藏のゝ草のゆかりをかこつべき故あるのみならず、高砂の松の知る人なきにしもあらざれば、さみだれかみのかき曇らぬさきにと、みのしろ衣思ひたつ事ありけり。
百年の楽しみも夢のように過ぎ去り、東軍だの西軍だのつまらない争いをしている。良し悪しを論じたところで、しょせんかりそめのことに過ぎない。とにもかくにも、こんなことに心を悩ますことこそ愚かなのだ。応仁の初めに世が乱れてからこのかた、我が故郷、花の都には別世界の空に月や日が巡っているような気がする。楢の葉の「なら」(奈良)に避難して6年の歳月を送った。木でもなければ草でもない竹の節と節の間の中空のように、中途半端な我が身がつらくて悲しい。泥の中に生える菖蒲草の根の長短を比べる端午の節句になった。比叡山の彼方にある美濃の国には、多少の縁、親しい友人もいないわけではない。梅雨空の悪天候にならぬうちにと、雨具の蓑代衣(みのしろごろも)を思い出しつつ、美濃へ旅立った。
知の巨人には失礼ながら強引に訳してみた。本歌取りを随所に組み入れた、かなり技巧的な文章だ。古歌に関して豊かな教養がないと話についてゆけないだろう。それができた武将がまさに、斎藤妙椿であった。
斎藤妙椿の系譜を調べると、上記説明板のいう妙椿=利藤は、どうやら誤りのようだ。系図にするならば次のようになろう。
系図に登場する斎藤利匡(としただ)は、崇福寺の開基だという。彼の一族の墓が崇福寺の境内、織田信長父子廟の近くにある。説明板も読んでみよう。
斎藤利匡(としただ)(利安(りあん)の子)一族の墓
当山開基斎藤利匡(利安の子)一族の宝篋印塔で、これらの塔は、文明・永正年間に建てられたものである。
この地は、元々利安の長良館であったが、守護土岐成頼と家臣利安が同じ夜、夢の中で「この地に寺を建てるように」というお告げを聞き、利安が寄進したと伝えられていた。
しかし、現在では利安の子・利匡が開基であるという説が定着。
(稲葉一鉄の父・道貞の戒名のみ判読可能)
稲葉一鉄という新たな人物が登場した。系図に表すなら次のようになろうか。どうも様々な説があるようで、よく分からないのだが、今回調べた限りの結論がこれだ。
守護代斎藤氏の全盛期は上の系図の時代である。「西の山口、東の川手」と呼ばれるくらいに美濃の川手城に都の文化が花開いたという。山口には大内氏、美濃川手には土岐氏と斎藤氏。中でも斎藤妙椿と一条兼良の交流が象徴的だ。斎藤道三にお家が乗っ取られるのは、妙椿から3代ほど後の話である。