歴史の謎の一つに「信長の首」がある。明智光秀は本能寺の焼跡で信長の遺骸を必死になって捜索したものの、遂に見つからなかったという。だからといって逃げ出したとは考えられない。おそらくは燃えさかる炎がすべてを焼き尽くしてしまったのだろう。
岐阜市長良福光の神護山崇福寺に「織田信長公父子廟」がある。岐阜市指定史跡である。上の写真は父子の墓、下は位牌堂である。日光東照宮のように絢爛豪華な位牌堂である。
墓標には父子の法名が左右に並べて刻まれている。
(右)摠見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 覚霊
(左)大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀
右は織田信長である。「贈一品大相圀」は死後に従一位太政大臣を贈位増官されたことを示す。左は嫡男の信忠で「三品羽林」は従三位左近衛中将の位官を示す。
信長の墓は各地にあるが、この墓は格別だ。お寺でいただいたリーフレットには次のような記述がある。
側室小倉なべ消息(折り紙)
天正10年(1582年)6月、信長・信忠親子が本能寺の変において明智光秀に討たれ、側室小倉氏が密かに信長公の首級を岐阜の当寺に葬ったとのことである。
小倉氏が公父子の位牌所と指定した古文書に、
わざとおりかみ(折紙)にて申候 此そうふく(崇福)寺 うえ(上)のいはいしゅ(位牌所)
にて候まゝ誰々いらん(違乱)と申とも御ことわり(断)被申べく候
そのため一筆申候 かしく
天正捨年六月六日 な 屋(なべ)
と記している。
側室小倉氏が密かに信長の首を崇福寺に葬ったという。ということは、崇福寺の墓こそ信長の首塚なのか。側室小倉氏とは「お鍋の方」で本能寺の変当時、最有力の側室であった。そのお鍋の方が「崇福寺を信長公の位牌所としますので、誰かが反対してもお断りなさい。」と言っているのだ。
墓の隣に設置されている岐阜市教育委員会の説明板には次のような記述がある。
墓地の東側には、土壇の上に一・七m四方の格子塀に囲まれた宝形(ほうぎょう)銅葺屋根木造彩色の位牌堂があり、その中に父子の位牌が安置されている。
天正十年(一五八二)六月二日、京都の本能寺において父子が遭難すると、六日には側室から崇福寺に書状が送られており、直ちに崇福寺に安置されたものと思われる。
ここには首級のことは書かれてはいない。代わりに、お鍋の方の書状とともに位牌が安置されたように説明している。だが、信長公に従一位太政大臣が贈られたのは、天正10年10月9日である。位牌の作成はそれ以後のことではないか。
観光関係の資料を読むと、お鍋の方が信長公の遺品をこの寺に納めたとあるが、これが妥当なところだろう。おそらく信長公の首は遺骸とともに焼失したであろう。遺骸が見つからないのなら、遺品を納めるのが通例である。
ここに「信長の首」が葬られているとすれば、公を追慕する供養墓ではなく、まさしく本当の墓ということになろう。首ではなく遺品だったとしても遺族公認の廟所であり、数ある信長の墓のうちでも最も正式な墓だといえる。昨年も10月6日(土)に「信長公追悼式」が行われ「ぎふ信長まつり」が開幕した。岐阜にこそ相応しい行事である。
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