キンタロー。というAKB系のモノマネ芸人が人気だ。独特な芸名は、名古屋市西区で目に留まった看板にヒントを得たという噂がある。確かにこの地には「金太郎商店」(リフォーム関連)だとか「ぱーま屋金太郎」(美容関連)という印象的な屋号が実在するから、噂は本当なのだろう。
芸名であれ屋号であれ、すべては童話キャラ、気は優しくて力持ちの金太郎にちなんだ名付けである。その金太郎が亡くなった場所があるというので行ってみた。
岡山県勝田郡勝央町平に「栗柄(くりから)神社」が鎮座している。
勝央町は10月上旬に金太郎、つまり坂田金時にちなんで「金時祭」を開催している。平成23年10月9日には第30回金時祭が開催され、勝央町マスコットキャラクター「きんとくん」が披露された。
「勝」字の前立ての兜を被り、マサカリを持って「金」字の腹掛けをしている。第3回ゆるキャラグランプリ2012にエントリーし245位を獲得するというゆるさである。しかし、金太郎没後1000年を記念して町が企画したという歴史的根拠のあるキャラクターである。
町の資料によると、きんとくんの誕生日は3月31日ということだが、これは昭和29年3月31日に勝央町が発足したことにちなんでいるのだろう。
また、勝央町は静岡県駿東郡小山町と姉妹縁組をしている。これは小山町が坂田金時生誕の地、勝央町が終焉の地とのゆかりによる。栗柄神社の前には「富士ざくら」が小山町から寄贈されていた。富士ざくらは小山町の「町の木」とされている。盆栽にもなるという小ぶりな桜である。
坂田金時は勝央町とどのようなゆかりがあるのか。孫引きにはなるが、『金太郎伝説 謎ときと全国の伝承地ガイド』(金太郎・山姥伝説地調査グループ、夢工房)を読んでみよう。
栗柄神社と坂田金時(岡山県勝央町)
九州にきょう徒が侵攻してきたので、頼光はまた勅命を受け、はるばると筑紫に向かって征討の軍を進めた。金時もいままで通りにそのお供をして出発したが、ちょうど霜月(十一月)の末のこととて、海路は波が高いので、陸路を播州路から作州へと道をえらんだ。ところがこの美作の国で、近年稀な寒気におそわれ、進めば進むほど寒さと雪にはばまれてしまったので、頼光は美作の国勝田荘糸山の麓に、仮の陣を構えてしばらく滞在することにした。ところがこの篭城中に金時はふとしたことから重い熱病にかかり、頼光はじめ四天王の方々の手厚い看護の効もなく、とうとう異郷の地であえなく亡くなってしまった。時に寛弘七年十二月十五日で、金時の年は五十五歳であった。頼光は、このよい家来を失ったことは、我が子を失ったように嘆き悲しみ、城の西にある片山の丘にねんごろに葬りまつった。かくして年も明けたので、頼光主従は、城の東の塩谷の奥にある塩滝の水で、忌明けの身を清め、九州に向かって出発した。勝田の荘の人々は、後にこの勇武な金時を慕うのあまり、この金時塚の上に、金時をまつる社をかまえ。倶梨伽羅権現と称えた。(倶梨伽羅とは、剛勇という意味をいう)。
(『勝央今昔 滝川のほとり』より 木村増夫『勝央町誌』にも同様の記載あり)
寛弘7年12月15日は西暦に換算すると1011年1月27日であり、2011年は没後1000年ということだった。
源頼光は頼光四天王の一人である坂田金時とともに九州に侵攻してきた兇徒の鎮圧に向かったというが、そのような史実はない。おそらくは1019年の「刀伊の入寇」が混在した言い伝えだろう。刀伊は藤原隆家率いる九州の武士によって撃退されている。
没地、命日、享年が明らかにされ、坂田金時はいかにも実在のように聞こえるが、そこが伝説の妙味で確かなことは何もないのである。神奈川県や静岡県では金太郎の伝説地はいくつもある。そこから遠く離れた美作の地に重要な伝説地があるのはなぜか。
先に引用した『金太郎伝説』によると、坂田金時にはモデルが実在したということだ。その名は下毛野公時(しもつけぬのきんとき)。藤原道長『御堂関白記』に彼の死亡記事が記されている。寛仁元年(1017)8月24日条である。
相撲使公時死去由。件男随身也。只今両府者中。第一者也。日来依此云云。憐者甚多。
道長の目に留まるほどの逸材だったようだ。「下毛野氏系図」(京都大学附属図書館蔵)にも公時の名が見え、「御堂番長・生年十八歳、為相撲使、下向筑紫於死去了、」との注釈があり、相撲使として九州へ向かう途中に18歳で死去したと解釈されている。
そうなると、先に紹介した伝説と下毛野公時の死去の史実は符合するのである。勝央町の栗柄神社は御堂関白が目をかけた若き逸材、下毛野公時をまつった場所なのかもしれない。
相撲使(すまいのつかい)は相撲の節会で相撲をとる相撲人を召集するため諸国に遣わされた使者である。金太郎が熊と相撲するのも、このあたりに端を発しているのであろう。
けだものあつめて すもうのけいこ ハッケヨイヨイ ノコッタ と童謡に歌われ親しまれてきた。次回はその作曲者の話をしよう。